2023年5月2日火曜日

わたしはどこに?



 ちょっと脳のことを考えていて、ふと「脳の中に “わたし” 

という意識の中心となる部分はあるのだろうか?」と考えた

んだけど、そういう話はこれまで聞いた覚えがない。なの

で、いま話題の [Chat GPT] (Bing AI)に尋ねてみたけど

も、「分からん」と言う。どうやら誰も知らないらしい。


 脳の神経細胞は、複数(というより「無数」でしょうけ

ど)が連絡し合ってはじめて活動することができ、その上で

意識も生じる。なので、「わたし」という一点が存在しなく

て当然です。「わたし」は、無数の情報の連絡が醸し出して

いる雰囲気のようなものでしょう。


 この世の中での役割としての「わたし」は、世の中の関係

性の交点あるいは接点がいくつも寄り集まった形で意識の上

にあるのだろう、それに加えて、そんな「わたし」を意識し

ているもう一つの “わたし” というものがある。「考えている

自分を見ている “自分”」のような感覚を誰でも持っているは

ずです。ある視点から自分と世界を見ているような意識

を・・・。

 けれども、わたしたちの脳や身体のどこにも、「ここから

すべてを見ている」とか「ここが自分の中心」という場所は

無さそうです。たぶん、科学はそれを見つけることはできな

いでしょう。なぜなら、科学は「関係」を説明するものだか

らです。

 「関係」をどこまで追求しても、「関係」は、「あるも

の」と「あるもの」の二者をおかなければ成立しないので、

その先にある “他との「関係」を超越するような一点” を説明

することはできない。なので、科学はその目前で堂々巡りを

するしかなくなる。ビッグバンの始まりの一点の前にはたど

り着けないように。ブラックホールの「事象の地平線」の先

は覗けないように。


 自分や世界を見ている “わたし” という意識は、思考で説明

することはできないけれど、誰だってそれがあることを否定

しないでしょう。仮にそれが「この肉体の外にある」と言わ

れても、否定のしようがない。

 「いや、死ねば意識も無くなるよ」という反論がありそう

ですけど、死んだあとに意識が有るとしても無いとしても、

生きてる側からそこにアクセスすることはできないので、

「死んだら意識が無くなる」と言い切れる根拠は無い。もち

ろん「有る」という根拠も無いけれど、有ることとして話を

進めてみることは自由だ。


 私がいま言った “死んだあとの意識” というのは、“個人の

魂” というのを想定しているのではありません。私は「個

人」というものは、この世の中の、さらに人間関係の中にし

か存在しないと思っているからです。「個人」というものも

世の中での「関係性」が生み出すお話しだと思っているの

で、“個人の魂” というのも、お話しの中のものだと思ってい

ます。


 “「わたし」というもの、あるいは「個人」というものは

「自分」の中に有る” というイメージを持っている人が普通

でしょう。まぁ、当然ですね。“「わたし」は、となりのクラ

スの健太くんの中にある” なんてこと誰も思いません(そん

なこと思ってたらかなりヤバい人です)。ならば、「自分」

の中に入り込んで深く探ってゆくほどに、より「わたし」に

近付いて、「わたし」というものが明確になりそうですが、

結果は逆です。


 「自分」の中に深く入り込むほどに、わたしたちは世の中

から離れることになりますが、世の中との関係性によって成

立している「自分(個人)」というものは、世の中との関係

が薄くなるほどに、形を失ってしまいます。「自分」の中に

入れば入るほど、「自分」は消えてしまいます。そして気付

きます。自分の中に「わたし」はいないと・・・。

 わたしたちが普段「わたし」だと思っているものは、驚く

ことにわたしたちの外に有るのです。世の中に有るのです。

 その世の中の一部である「わたし」というものを脳が意識

しているので、あたかも自分の中に有るかのように感じてい

るというのが真相です。では “「わたし」が自分の中に有る

かのように感じている”、 その “感じている” 意識はどこにあ

るのか? その意識こそ “わたし” と呼ぶに相応しいでしょう

が、それは自分の中にあるのか?
 

 “わたし” はどこにあるのか? いや、どこにいるのか? そ

してそれは何なのか?


 私には答えを言うことができません。

 その答えは、思考の外にありますから、言葉にすることが

できません。

 仮に何かの言葉を使って表現しても、思考の流儀に沿って

表現することは不可能です。ですから、それは個々に実感す

るしかないものです。共有できないものです。むしろ、言葉

にしようとしない方がよいものでしょう。


 言葉にしなくても、それは存在している。

 感じようとしなくても、“感じること” 以前にそれは存在し

ている。

 「わたし」を観ている、“わたし” ・・・、それに自分を委

ねてしまうと・・・。

 わたしはここに在る。




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