2023年5月14日日曜日

非常識な〈常識〉



 毎回、非常識なことを書いている  なかには「非人間

的」と言われそうなこともあるだろう  けれど、さてそも

そも「常識」とは何か?


 場所と時代が違えば「常識」も違う。人間にとって普遍的

なことを、社会が「常識」として採用していることはとても

少ないように思われる。それぞれ、その時代と場所に生きる

人の多くが気に入ることで、なおかつ多くの人が理解し実践

できるストーリーを「常識」としているだけなので、あまり

後生大事に扱うものでもないはずだ。いや、むしろ「常識」

というものは、人がより良く生きる為にものを考える「叩き

台」程度に扱うものだろう。なぜなら、「常識」というもの

は、せいぜい「そこそこ良く生きる」程度の基準でしかない

から。


 人が十人いれば、当然十人の能力レベルはさまざまな面で

違う。10万人いてもそれぞれに違う。「常識」というもの

は、その社会の大多数の人が理解し、身に付ける  常識に

従って行動できる  必要があるものだけど、それが災いし

て、「常識」というものは程度の低いものにならざるを得な

い。

 大多数の人は、当然標準的な能力レベルの人だけれど、高

度な判断力や、高い倫理性を持った人の能力基準で「常識」

が作られると、標準的な人はその「常識」について行くこと

ができない。その為「常識」というものは、標準的な判断力

や倫理性のレベルを越えると、少数派にとっての “常識” にな

ってしまい、いわゆる「常識」にならないという宿命を持

つ。かといって、標準的な能力レベルに「常識」を置いて

も、標準的な能力レベルより下にある半数近い人間を取りこ

ぼしてしまうことになるので、これもまた「常識」とするに

は数が足りない。かくして「常識」は、半数以上の人間を取

り込んで「常識」となり得るために、人の標準より少し下の

判断力や倫理性のレベルに落ち着かざるを得ない。せいぜ

い、期待を込めて標準レベルが精一杯ということになる。

「常識」とはそういうものなのだ。


 そういうことを踏まえた上で、私はこのブログを書いてい

る・・・というわけでもない。

 そういうことは踏まえているけれど、私が非常識なのは、

生理的に「常識」のおかしさを嗅ぎ取ってしまって、「ブツ

ブツ」言ってしまうだけだ。「それ(常識)は、人として 

“絶対” ではないでしょ?」と感じてしまうので・・・。


 もう一つ付け加えておきたいのは、私は「常識はレベルが

低いから従ってられない」というような傲慢なことを思って

いるわけでもないということ(もしかしたらそう思っている

のかもしれないけど)。私が非常識なのは、「常識」という

ものは先に書いたようなものなので、そういうものはまった

く取っ払った上で人や世界を見た方が、人と世界の本質的な

ことの理解が進んで、「人として普遍的ですべての人の良い

生き方の指針となるような、本当の意味で〈常識〉と呼べる

ような判断力や倫理性にたどり着けるのではないか」と感じ

ているのだということ。


 たとえば「死」はすべての人が等しく必ず経験する唯一の

ことで、人が死ぬのは「常識」です。けれども、ほぼすべて

の人は「死」を恐れ、忌み嫌う。

 「死」の常識性(必ずのことだからね)を思えば、「死を

忌み嫌い恐れることは、おかしいことじゃないのか」と考え

たとしても、変なことではないはず。

 「死」に限らず、そんな風に考え直してみる価値があるこ

とは、この世にいくらでもある。だから私は非常識にならざ

るを得ない。


 「常識」の中の小さなつじつま合わせに取り囲まれて、人

はそれぞれに小さなつじつま合わせの「生」を生きることに

なってしまうけれど、私はそのことを「悪」だとまでは思わ

ない。人間には仕方がない部分だろう。けれど、いわゆる

「常識」を取っ払って、人と世界の広々とした真実を理解し

た上で、あらためて「常識」に寄り添うのなら、人として楽

に、より良く生きることに繋がるだろう。


 この世界の「常識」に苦しめられている人は無数にいる。

いま苦しんでいなくても、いつ苦しむことになるかもしれな

い。でもその「常識」は仮のもので、そんなもの全部払いの

けても残る、真の〈常識〉が有って、そこに意識を置くこと

がができれば、「常識」のもたらす苦しみから離れて息がつ

ける。

 なので、私は非常識になって〈常識〉を見たい。

 私はとっても「非常識」な、〈常識人〉なのだ。


 

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