2024年5月12日日曜日

信仰という壁



 「南無阿弥陀仏」 なんてことを言ったり書いたりすると、

「宗教だ」「信仰だ」なんて思われる。まぁ普通はそうなん

だろう。けれど私は「宗教者」でも、何かの宗教の「信者」

でもないと自分では思っている。ひとつの手掛かりとして

「南無阿弥陀仏」という言葉が私の中に浮かび上がってくる

のであって、阿弥陀仏を信じたりしているのではない。むし

ろ、信じない方がいい。阿弥陀仏を信じたりしないまま「南

無阿弥陀仏」を行き着くと、「信じる必要もない」というと

ころへたどり着く。けれど阿弥陀仏を信じていると、そこへ

はたどり着けない。それは「信仰」のままで、「信仰」して

いる限りしあわせにはなれない。


 あらら、ヤバいこと書いてしまった・・・、「信仰してい

る限りしあわせにはなれない」なんて、人類の8割ぐらいを

敵にまわしたかもしれない。でもね、私が思うに、「信仰す

る」って〈壁〉を立てることなんですよ。それに守られてい

るように感じるのでしょうけど、実は世界を区切っているわ

けです。制限され、風通しも悪い。


 どのような「信仰」を持っている人であれ、「信仰」を持

っていない人であれ、すべての人の心臓は動き、赤い血が流

れている。それは、命は「信仰」を必要としていないことを

示しています。

 「信仰」の有無に関わらず、人は生まれてきて死んでゆ

く。命は「信仰」より広いものです。それを区切ったりせず

にそのまま受け取った方が、当然世界は豊かではないでしょ

うか? これは筋の通った話だと思いますが、にもかかわらず

多くの人が「信仰」を持つ。それはなぜでしょう?


 その理由は、エゴというものが意識の中で存在し続けたい

からですね。

 エゴとは自意識ですが、自意識が存在するためには自分と

世界を区切らなければならないわけです。そうしていたいエ

ゴにとって、何かを信じ、それを盾にして世界を区切ること

は、エゴを強化するのにとても都合がいい。「信仰」はエゴ

の道具です。そしてエゴは本当のしあわせを知りませんか

ら、自分の周りを「信仰」という壁で囲って守りを固めて

も、その中にしあわせは無い。小さな安心感は有るでしょう

けども、世界を区切っていることでさまざまな不都合を生み

出して困る部分の方が大きいでしょう。「信仰」の中にしあ

わせはありません。


 「信仰」を持つ人をバカにしたり、ケンカを売ったりした

いのではありません。本当にしあわせになりたいのなら、

「信仰」を持つべきではないという見方もあるのだというこ

とを示したいだけです。その上で「信仰」とはどういうもの

かを考えてもらいたい。自分の「信仰」を振り返ってもらい

たい。「自分は本当にしあわせなのか?」と。


 じゃあ、何も信じずにしあわせは有るのか?

 しあわせになれるのか?


 何も信じる必要はありません。いや信じないようにするべ

きです。そしてただ見ればいいのです。感じればいいので

す。何も信じなくても、生まれて来たことを。いま生きてい

ることを。その不可思議さを。そして微笑もうと思えば今す

ぐ微笑むことさえできるのだということを。

 そのとき、「何かを信じる」という壁は倒れ、世界の広

さ、自分命の広さを目の当たりにします。そして気付きま

す。「ああ、何も信じる必要はなかったんだ」ということ

に。




2024年5月5日日曜日

有ること難し ~ その弐



 「有り難い」・・・。そんなこと言ったって、我が子が死

んだりしたら「有り難い」なんて思えるわけがない。

 当然です。人間ですから。けれど、“「有り難い」と思えな

い自分” が有り難い。などとも思います。


 泣けばいいし、そんな運命を恨んだっていい。そうしてい

る自分も「有ること難し」で、そうするより他ない自分で

す。そこまで自分にとって重要な存在が自分の子として生ま

れてきて、その命のすべてを見せて去って行った・・・。そ

れも空前絶後の事です。「有ること難し」です。


 なにもかもが「有ること難し」です。

 前回、“嫌な事や嫌な奴は「有りがち」です” とも書きまし

たが、それはわたしたちのアタマが「有りがち」な受け止め

方をして苦しむからそのように表現したのであって、その 

“嫌な事や嫌な奴” も、それ自体は、そのそれぞれが「有るこ

と難し」です。すべてがこれっきりです。


 ある妙好人が、高齢になって寝たきりの妻の介護をしてい

た。目をショボショボにしながら世話をしているのを見た知

り合いが「じいさん、たいへんじゃのう」とねぎらうと、

「(おむつの交換も)一回々々、やり始めのやり仕舞いなの

じゃ」と言った。


 難儀なことも、そのひとつひとつの「これっきり」を、

「有ること難し・・・」と受け取ってゆく。

 「これっきり」の今の自分が、「これっきり」の出来事を

生きてゆく・・・。時には、それは酷く苦しいかもしれな

い。耐えられないかもしれない。でもそれはそれで「これっ

きり」。


 なにもかもが「有ること難し」。

 ありがたい自分。

 ありがたい世界。


 *妙好人=浄土真宗の信者で、真実の教えにめざめ、
      お念仏の生活を送った人




2024年5月4日土曜日

有ること難し



 「わたしたちは、わけもわからないままこうして生きてい

る。ありがたいことではないですか?」


 前回そんなことを書いて終わった。けれど、「生きてても

面白くないし、何もありがたくないよ・・・」という人も多

いでしょう。「ありがたい」という言葉を感謝の意味で捉え

れば、確かにそういうことも言えます。でも「ありがたい」

という言葉は、本来〈感謝〉を直接表す言葉ではない。


 「ありがとう」は「有り難う」。「ありがたい」は「有る

こと難(かた)し」。

 感謝の念が湧いてくるような事は、有ることが難しい事

あって、言い換えれば「滅多にない事」という意味。それが

好ましいことなら人は「ありがたい」と言う。

 けれども、「滅多にない」という基準が適応できる事な

ら、好ましくない事でも「有り難い」と受け取ることができ

るのでは?


 カミナリに撃たれて死にかけた・・・。あるいは死んだ。

 「これは滅多にない!有り難い!感謝🙏」。 そういうの

は、有り?


 そんなのナシですよね。けれど、有りにするのも面白いん

じゃないでしょうか? だって、それが起こってしまったのな

ら、拒絶したってしようがない。《 機嫌が悪い奴はバカ 》で

すからね。起きてしまったのなら、面白がってしまった方が

賢いでしょう。


 嫌な事や、嫌な奴に関わると文字通り「嫌になる」。そう

いうのが続けば「生きてたって面白くない」という気持ちに

もなる。「こうして生きていることが、ありがたい」なんて

思えない。けれども、自分がこうして生きていることは「有

り難い」どころか、宇宙で二度とない事です。あなたも私も

宇宙でこれっきり。ここだけ、今だけ(なんかのキャンペー

ンみたいだ)。「有り難い」を超えている、空前絶後です。

 その一方で、嫌な事や嫌な奴は「有りがち」です


 誰かに悪口を言われる。よくあることです。人はそればっ

かりやってるんだから。

 犯罪に遭う。災害に遭う。そうそう遭うわけでもないけ

ど、そういうことが世の中によく起こるのは誰でも知ってい

る。珍しいわけではない。

 そういう「有りがち」なことに次々出会いながら、空前絶

後の「自分」が生きている。「自分」の方にまなざしを向け

てみれば、その事はとてつもなく「有り難い」んじゃないで

すか?

 私なんかそれを考えると「これはホントに凄いぞ・・・」

と感嘆してしまうんですけどね。


 《 ここだけ 今だけの

       「自分」という空前絶後のキャンペーン 》


 あなたも、凄いことなんですよ🩷






2024年5月3日金曜日

「勇気」はいらない



 前回「哀言葉は “勇気” 」なんて書いて終わったけど、「勇

気」という言葉が使われる状況というのはなにがしかの危機

だから、そこには多かれ少なかれ緊迫感なり不安なりがある

わけで、「哀言葉」という表現もあながち的外れでもない

かもしれない。

 加えて「勇気」というものがことさら意識されるような状

況では、「勇気」はあまり良い結果をもたらさないんじゃな

いかとも思う。アタマが介入し過ぎてね。特に考えずにやっ

てしまう方が、人に本来備わった勇気が出るように思う。言

葉にしなくてもいい勇気がね。


 「勇気」という言葉は、「努力」という言葉と兄弟みたい

なものだろう。“がんばれ系” の思考だね。

 「勇気」や「努力」という言葉が出てくるような行為は 

“はじめにアタマありき” で、そのせいで行為自体がぎこちな

くなる。心と体のスムーズな連携が邪魔されて、出せるべき

ものが十分に出せなくなるだろうし、自分と周りとの良好な

繋がりも阻害されるだろう。

 少し前に「無心のはたらき」という話を書いたけど(『無

心に・・・』2024/3)、アタマが邪魔せずに「無心のはた

らき」がスムーズに出てくるのが望ましい結果を生むでしょ

う。

 例えば、駅で線路に落ちた人を助けようとして、とっさに

無我夢中で飛び降りて助けたとかいう場合、それは「無心」

なればこそ素早く行動できるからでしょう。でも、無我夢中

で助けようとして二人ともはねられてしまうということもあ

る。けれど、それは無我夢中の中での事なので、それで完結

しているからそれで良いのだと思う(はなはだ納得してもら

いにくいでしょうけど😅)。


 ただなりゆきに任せて生きてゆく。

 「勇気」も「努力」も、考えるに及ばない。


 生まれて来るときに「勇気」を出して生まれて来たわけじ

ゃない。

 生まれて来るときに「努力」して生まれて来たわけじゃな

い。

 命のはたらきによって、無心のなりゆきで生まれて来た。

 命のはたらきによって、無心のなりゆきで生きて来た。

 それなら、命のはたらきに任せて生きていればいい。

 無心のはたらきに身を任せていればいい。

 アタマは生き方を採点してあれこれ言うけれど、命は生き

方を採点したりしない。アタマより命のはたらきが先なんだ

から、命のはたらきを優先する方が良いに決まっている。ア

タマが文句をつけるので、間違っているように思わされるけ

れどね。



 ・・・ここまで書いていて、「ああ〈南無阿弥陀仏〉のこ

とを書いているんだな」と気が付いた。私は真宗の信者では

ないけれど、すっかり〈南無阿弥陀仏〉が身についてしまっ

ているんだなぁ。


 浄土真宗の僧侶の藤原正遠(しょうおん)さんが、こんな

言葉を遺しておられます。


 《 不可思議と 思うは思議なり 自力なり

       まかせまつれば まこと不可思議 》


 わたしたちは、わけもわからないままで、こうして、生き

ている。ありがたいことではないですか?