2024年5月3日金曜日

「勇気」はいらない



 前回「哀言葉は “勇気” 」なんて書いて終わったけど、「勇

気」という言葉が使われる状況というのはなにがしかの危機

だから、そこには多かれ少なかれ緊迫感なり不安なりがある

わけで、「哀言葉」という表現もあながち的外れでもない

かもしれない。

 加えて「勇気」というものがことさら意識されるような状

況では、「勇気」はあまり良い結果をもたらさないんじゃな

いかとも思う。アタマが介入し過ぎてね。特に考えずにやっ

てしまう方が、人に本来備わった勇気が出るように思う。言

葉にしなくてもいい勇気がね。


 「勇気」という言葉は、「努力」という言葉と兄弟みたい

なものだろう。“がんばれ系” の思考だね。

 「勇気」や「努力」という言葉が出てくるような行為は 

“はじめにアタマありき” で、そのせいで行為自体がぎこちな

くなる。心と体のスムーズな連携が邪魔されて、出せるべき

ものが十分に出せなくなるだろうし、自分と周りとの良好な

繋がりも阻害されるだろう。

 少し前に「無心のはたらき」という話を書いたけど(『無

心に・・・』2024/3)、アタマが邪魔せずに「無心のはた

らき」がスムーズに出てくるのが望ましい結果を生むでしょ

う。

 例えば、駅で線路に落ちた人を助けようとして、とっさに

無我夢中で飛び降りて助けたとかいう場合、それは「無心」

なればこそ素早く行動できるからでしょう。でも、無我夢中

で助けようとして二人ともはねられてしまうということもあ

る。けれど、それは無我夢中の中での事なので、それで完結

しているからそれで良いのだと思う(はなはだ納得してもら

いにくいでしょうけど😅)。


 ただなりゆきに任せて生きてゆく。

 「勇気」も「努力」も、考えるに及ばない。


 生まれて来るときに「勇気」を出して生まれて来たわけじ

ゃない。

 生まれて来るときに「努力」して生まれて来たわけじゃな

い。

 命のはたらきによって、無心のなりゆきで生まれて来た。

 命のはたらきによって、無心のなりゆきで生きて来た。

 それなら、命のはたらきに任せて生きていればいい。

 無心のはたらきに身を任せていればいい。

 アタマは生き方を採点してあれこれ言うけれど、命は生き

方を採点したりしない。アタマより命のはたらきが先なんだ

から、命のはたらきを優先する方が良いに決まっている。ア

タマが文句をつけるので、間違っているように思わされるけ

れどね。



 ・・・ここまで書いていて、「ああ〈南無阿弥陀仏〉のこ

とを書いているんだな」と気が付いた。私は真宗の信者では

ないけれど、すっかり〈南無阿弥陀仏〉が身についてしまっ

ているんだなぁ。


 浄土真宗の僧侶の藤原正遠(しょうおん)さんが、こんな

言葉を遺しておられます。


 《 不可思議と 思うは思議なり 自力なり

       まかせまつれば まこと不可思議 》


 わたしたちは、わけもわからないままで、こうして、生き

ている。ありがたいことではないですか?






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