2021年1月3日日曜日

2021年・虚無の旅

 

 年が明けて2021年。この “2021年” という数字を見てい

てなんとも不思議な気持ちになった。

 というのは、自分が10~20代、いや、40代の頃でも、

 “2021年” なんて数字は、ほとんど SFに出てくるものであ

って、それが現実になるというイメージは無かった。なぜか

しら、昨年の “2020年” にはそういう感じは持たなかったの

だが、“何か” を越えたのだろう。


 そんな感覚を覚える一方で、人間のしていることといった

ら相変わらずだ。

 人間の生み出したものは大きく変貌し、想像でしかなかっ

ことが現実になっているし、想像もしなかったことを目の

たりにしたりもしている。けれど、当の人間そのものは、

も変わらずアタマが悪いまま・・・。残念ながら、「あけ

しておめでとうございます」などとは言う気になれない。

「あけました・・・、ご苦労さんです・・・」そんな気分か

なぁ。


 なぜ「ご苦労さん」なのかと考えてみるに、わたしたちの 

“アタマ” は「合理性」と「感情(情動)」で出来ているけれ

ど、「合理性」が “物” に働きかけてそのパワーを果てしなく

大させているのに対して、「感情」の方は何の進歩も成長

無いからだろう。


 「合理性」の指標は「正・誤」で、「感情」の指標は

「快・不快」だ。

 この二つを用いて、人は物事を判断するのだが、そこに大

きな問題がある。


 「正」→「快」であれば良いけれど、「快」→「正」と判

断するのが、人間の実情であって、人間は「感情優位」なも

のです。

 なので、「合理性」は「快・不快」に引きずられ、非合理

な「感情」の道具となる。それが、人間の身体性の範囲での

ことであれば、「寒い」→「服を着る・暖を取る」といった

ことで問題は無いのだが、観念的な「快・不快」に引きずら

れるとなると、問題を起こす。「ムカつく」→「相手を殴

る・SNSで罵る」といった具合に。


 さらに、先端技術の使われるような、高度に「合理性」で

出来ていること  ロケットの打ち上げのような  でも、

そのスタートが観念的な「快・不快」によるものであれば、

問題を作り出すだけでしかない。なぜなら、観念には実体が

無いので、どれほど具体的な「合理性」を積み上げても、そ

れは宙に浮いた異物にしかならない。それに、身体的な

「快・不快」に対処する事は、時間的にも物理的にも小さな

活動で終わるけれど、観念的な「快・不快」への対処には際

限がない。もともと実体が無いものの「快・不快」なのだか

ら。

 そうして、観念的な「快・不快」に端を発する活動は、ど

んなに「合理的」であろうと、ブレーキをかけなければ、無

限に問題を大きくして行くことになり、ある限界を越えると

破滅する。古代文明がいくつも滅んだように。


 冒頭の話に戻るけど、“2021年” という数字を私が SF 的

に感じるということは、そこに現実味が無いということでも

あるようだ。なにか、観念的なものが身体的なものを完全に

駆逐してしまったようなイメージを “2021年” という数字か

ら受け取ってしまう。「これまでと何かが違う」と私の感覚

が言う。
 

 考えてみるに、去年一年間、「新型コロナ騒動」という観

念の暴走に世界中が引っ掻き回されるのを目の当たりにし続

け、身体性・具体性が人類規模で見過ごされていることを、

嫌というほど感じさせられたのだから、人間のやることに心

底現実味を感じられなくなったのだろう。


 私は「合理性」より「感覚」の側に立ちたい。「観念」で

はなく「在るもの」を拠り所にしたい。なぜなら、わたした

ちは「合理性」から生まれたのではないから。

 気付いた時には自分が在って、この世界が存在していて、

それが何故なのか分からないという寄る辺なさから逃れよう

と、わたしたちは「合理性」にすがる。でも、それはわたし

たちの出来損ないのアタマが後付けででっち上げたものだ。

間に合わせに過ぎない。


 「合理性」のロケットで宇宙という虚無を探索するより、

「感覚」という地面に立って、風や日差しを楽しむ方が気分

が良いのに決まっている。

 決まっているはずだと思うのだけれど・・・。




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