2021年1月31日日曜日

あなたのせいなの?


  私は、自分を弱い人間だと思っている。関西で言うところ

の「ヘたれ」。昔の表現なら「アカンたれ」  すぐに「ア

カン(だめだ)」と言う。

 その一方で、他人から「メンタルが強い」などと言われる

こともある。けれどそれは、私が非常識な人間なので、常識

的な人が傷付く場面で結構平気なのを見ての印象だと分析し

ている。私は、やはり弱い人間だと思う。


 メンタルも弱い。身体的持久力もあまり無い。健康そのも

のということも無ければ、社会的に目立って活躍できるよう

な能力も無い。少なくとも、通常、社会が評価してくれるよ

うな強さは持ち合わせていない。おかげで、これまで随分苦

しい思いをして来たが、その「苦しい思い」さえ、他の人か

らしたら「その程度で?」と言われるかもしれない。まった

くもって、強くない。


 けれど、そんな私から見ても、弱い人はたくさんいる。

 「この人、大丈夫?」「この先、生きて行ける?」と心配

になる人はいくらでもいる。


 実際、弱い人は社会で淘汰される。社会の底辺で、ひどく

苦しみながら、希望も無く、ただ生きるといった状態だった

り、その挙句死んでしまったり、自殺したり・・・。

 それは生物としては当然のことかもしれない。どのような

生物でも、弱い個体は淘汰されてしまう。けれど、人間以外

の生物が受ける淘汰は、あくまでも自然のバランスの中での

事であって、人間の社会の中での淘汰とは意味が違う。

 人は、多くの場合で、人と人が作る妄想によって淘汰され

る。

 人は妄想によって絞め殺され、幻想によって押しつぶされ

たりしてしまう。

 現在では、「経済」という幻想の産物から完全に排除され

れば、人はほぼ死ぬしかない。
 

 そのように淘汰される人間を、社会は、「当人が弱いから

仕方がない」と見做す。


 「ちょっと待て」と思う。


 そのような、自分の置かれた状況への適応力が無い人間

が淘汰されるのは、仕方がないとは思う。けれど、その状況

は人間が作り出した約束事であり、幻想に基づくものだ。そ

こで適応できなかった人間には、なんらかのエクスキューズ

が有るべきだろう。 その当人の「弱さ」は社会の約束事が生

み出すものであって、当人の責任ではない。

 たとえば、非常に社会的能力が高い人でも、高齢になれば

その能力は衰え、身体的にも衰え、「弱い人」となる。それ

はどんな人も避けられない。その人を「弱いから仕方がな

い」と簡単に排除するのか?でも、それは “明日の我が身” だ

ろう。自分は、それを受け入れるのか?


 その時代。その状況。その文脈。

 「弱さ」の在り様はその時その場所で違う。

 たまたまその時その場所で「強さ」を出せる者のご都合主

義で、「弱い人」が作られるだけだ。

 その時その場所で、「強い人」は確かに「強い」。

 けれど、その「強さ」をなにか絶対的なものだと思うのな

ら、それは下品なことだ。その人の為にも、周りの人の為に

も良くない。ましてや「弱い人」の側に立たされた人には、

救いが無い。


 私は弱い。

 沢山の人が、弱い。

 けれど、比較することで動くしかない社会にあっては、

「弱い」側にまわる人が生まれるのは当然のこと。

 当然のことなら、「弱い人」は胸を張って「弱く」あって

いいだろう。

 社会が、「強い」側が、それを許せないのなら、その社会

は、「強い」側の人間は、大した能力を持っていないという

ことではないか?


 社会のすべての出来事は、すべての人の立場は、時代によ

る。状況による。文脈による。
 

 「強い」としても、あなたのせいじゃない。

 「弱い」としても、あなたのせいじゃない。
 

 社会がそれを認めなくても、それが本当なのだ。

 胸を張って「弱い人」であればいい。

 もちろん「強い人」も胸を張っていい。

 そして、それぞれに、いつの時も、「強い」「弱い」なん

てことを越えて、「人である」ことに胸を張っていい。


 このことの確信については、私は「強い」。






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