2021年1月26日火曜日

心の物語



 さっきまで、今朝録画しておいたEテレの『こころの時

代』を見ていた。

 今日は、終末期の癌患者さんやその家族の方たちのこころ

のケアを長年続けておられるお坊さんと、これまで関わった

方の話を聴けたのだが、とても良い番組だった。 

 番組を見ている途中で、気が付いたことがあった。話の中

にそういう言葉が出て来たわけではないのだけれど、わたし

たちには「心の物語」が必要なんだなと。


 何千年も昔から、宗教というものがその役割を担ってきた

けれど、残念ながら、あまり上手く機能して来たとは思えな

い。そこで語られる物語は、信じなければ成立しない所でと

どまり、信じる必要さえない所までは、なかなか導いてはく

れない。だからこそ、篤い信仰を持った人であっても、自分

の身近な人の死に深く深く打ちのめされたり、自分自身の死

を自然に受け止めたり出来ないといったことが起きてしま

う。

 それは、そこで語られる物語が、自意識や社会意識の中に

納まっているものであって、その外にある「死」に象徴され

ることに対して、開かれていないからだろう。


 わたしの中に浮かんだ「心の物語」というのは、「死」に

対して開かれていて、「生」と「死」をつなぐ道のようなも

のとして、語られ、持たれるべきものです。では、それはど

のようなものか?

 「物語」といっても、それは必ずしもストーリーというわ

けではない。「生」と「死」をつなぐ道筋として、こころに

留め置かれるもの。いくつかの言葉、イメージ、気配といっ

たもの。


 「死」は「生」を分断するものではない。


 最近の私は「命」というものを〈 存在させるエネルギー 

という風に感じている。

 この世界のありとあらゆる “存在” を在らしめる働きだと感

じているんです。その働きによって、まず無生物(物)が存

在させられ、その無生物のあちらこちらに、さらなるエネル

ギーが集約することで、生命が動き出す。



 ~私の中のひとつの「心の物語」~


 ひとりの歌手がいる。彼が歌い出すと、そこに歌が生ま

れ、ひと時のあいだ、美や喜びや楽しみや切なさなどが交錯

するが、歌が終われば、また静寂が訪れる。そこには沈黙を

守る歌手が立っている。彼が消えてなくなるわけではない。


 「死」とは、歌を生みだす歌手のようなものであり、

「生」とは「死」が歌う歌のようなものである。わたしたち

それぞれの歌であるそれぞれの「生」は、「死」というエネ

ルギーに支えられて生まれ、時が来れば「死」という沈黙の

中へ静かに還る。絶対の安らぎの中へ戻り、次の歌となるの

を待つ、あるいは、その安らぎの中で、他の歌を聴いてい

る。


 人は、「死」が歌う、“わたし” という「生」のバイブレー

ションを直接受け取り、他の “わたしたち” のバイブレーショ

ンも楽しむ。生み出された “わたし” を慈しみながら。そして

た、静寂と安らぎへと戻る時まで・・・。





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