2021年10月24日日曜日

魂は意味を知らない



 前回は、このブログがいかに口から出まかせなのかをよく

表した良い内容(?)だったと思う。本当にテキトーに綴ら

れているのですよ、このブログは。


 とは言え、テキトーであるとしても、本人は誠実に努めて

いる。

 なんとなく、なりゆきで浮かんで来た想いであっても、人

として、「良い話にしよう」という姿勢で言葉をつないでい

る。内容よりも、その辺りの雰囲気が伝わる方が大事なよう

に思う。結局のところ、人というものは合理性とか社会性よ

りも、気分を優先するものだと思いますからね。

 人は、筋が通っているかどうかなんかより、自分の気分に

訴えかけてくる話に意識を向けるものです。良いことでも悪

いことでも。

 それが自分にとってなんらかの意味を持つかどうかが重要

であって、自分が意味を感じられないようなことは、宇宙の

真理であろうとムダ話に過ぎない。自分にとって意味がある

ことが重要なので、それ以外のことはどうでもいいのです。

 まぁ当然ですね。自分にとって意味が無いことに時間とエ

ネルギーを費やす必要はないですから。でも、その “自分に

とっての意味” が曲者だということは、普通は考えてみない

んですね。それが本当に自分にとって良いものであるのかど

うかなんてこと、疑い始めたら自分の足元がグラグラしてし

まって怖いですから。だから《 「正しい」とは、そういうこ

とにしておけば気が済むということ 》になって、「自分の気

分を害さないことが “正しい” 」ということで話しを閉じてし

まう。当人はそんなことしているなんて思ってもいないでし

ょうけどね。(まぁ、このブログも、私の “気が済む” ことを

書いてるだけですからね。「正しい」とは決めつけていない

だけ良心的だとは思いますが)


 人は皆、自分にとって意味があることを大事にするもので

すが、その大事なものは “意味のある世界” で価値を持つもの

であり、“意味のある世界” には当然ながら相反する意味のこ

とが存在しますから、人は苦しみます。


 「価値のあること」「良いこと」を望む意識は、同時に

「価値の無いこと」「悪いこと」を意識せざるを得ません。

「正しいこと」は、「正しくないこと」と手をたずさえて人

を取り囲むことになります。


 それは人の宿業ではありますが、人が持って生まれて来た

ものでもありません。生まれて来た時、赤ちゃんは意味など

知りませんからね。けれど、生きる為に社会から意味を教え

られます。そうしなければ生きて行けないのは事実ですか

ら。しかし、それは同時に生きることの苦しみをもたらして

しまう・・・。

 本来、魂は意味を知らないのに、“意味” という重荷を背負

わされてしまいます。


 意味を知らねば生きて行けない・・・。

 意味を知ることで生きることが苦しくなる・・・。

 それが人間の宿業です。

 いったいどうすればいいのか?


 意味を組み合わせて、意味の世界から自由になるしかあり

ません。“意味” を使って “意味” を消すのです。そのような

思考の働きを、私は「智慧」と呼びます。


 「知恵」は意味の中で働き、人を意味の中に留めるもので

すが、「智慧」はわたしたちを意味の外へと導く働きです。

そして、人に本当の安らぎを知らせてくれます。
 

 魂は意味を知らない。

 そのことに立ち戻ることができた時。人は “意味” の束縛か

ら解放され、自由を実感して「はぁ~・・・」と心から安堵

のため息をつくことができます。


 魂は意味を知らない。

 それは誰にでも納得できる事実ですし、自分の意識の底に

目を向ければ、誰でも実感できることです。そして、そこに

は乱されることのない安らぎがあります。


 魂は意味を知らない。

 と同時に、魂に意味は必要ないのです。







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