2023年6月27日火曜日

間違えたけど・・・



 前回のブログを書いてしばらくしてから、「あ、間違え

た」と思った。

 何のことかというと、 “自分の心の中ののエゴをなるべく

下がらせて、心を空けておく」・・・” と、最後のほうに書

いたけれど、エゴを下がらせることなどはできない。うっか

りしていた。

 まぁ、間違ってもいいんだけどね。口から出まかせを書い

てるだけだし、そもそも “「間違い」って何?” という気もす

るし。でもまぁ、このブログでは大事な部分なので、訂正し

ておきたい。


 この前の『断・捨離』(6/22)の時にも書いたけれど、そ

れ以前にも「心のスペースを空けることはできない」という

意味の事を何度も書いている。

 わたしたちの「意識」と「無意識」は、常に思考と情動で

満たされていて、そこを空にすることはできない。けれど、

昔から「心を無にする」とか「無我の境地」とかいうことが

言われて来たので、修行などをすれば「意識」を空っぽにす

ることができるようなイメージを多くの人が持っているだろ

う。しかし、それは無い。「無」になんて死ぬまでならんわ

い(by 沢木興道)。


 「心を無にする」のではなくて「無が在ることを、心にと

どめる」と考えた方が良いだろう。

 「無我の境地になる」のではなくて、自分の中に「無我の

境地があることを知る」というのが適切だろう。


 たとえば広い草原の真ん中で、スマホに自分への悪口が

次々と届いているとする。

 目は画面に釘付けになり、心はざわついて、怒りや不安や

悲しみが沸き起こってアタマは爆発しそうになっている。苦

しい。悔しい。けれど、実は自分が居る所は青空の下のそよ

風が吹く草原なのだ。スマホを消して目を上げれば、そこに

何の苦しみも無い。

 そんな風に、わたしたちの「意識」「無意識」のまわり

は、広い穏やかな空間が広がっているのに、そこに意識が向

かないだけなのだ。


 「無」になる必要はないし「無」になんかなれない。手に

入れることもできない。「無」(我の無いスペース)はもと

から在る。もとから在るのだから「なる」ことも「手に入れ

る」こともできない。そんな必要がない。

 怒りも不安も悲しみも無いスペースの中に、わたしたちの

「意識」は浮かんでいる。それを知ればいいだけ。修行も苦

行もいらない。ちょっとした慣れが必要なだけ。


 止むことなくアタマに湧き上がる思考。胸をよぎり、揺さ

ぶる感情。その背後に空間があるでしょ?

 ちょっと視点をずらせば誰にでも見えるはず。分かるは

ず。それが分かっていれば、どんなにエゴが七転八倒してい

ようと、「ああ、エゴがパニくってるな・・」と自分の境遇

がスマホの画面の中のように他人事になるのです。たとえ、

エゴの七転八倒のせいで死んでしまっても、それすら他人事

のようになるのです。

 「無」は自分を包んでいる大きなもので、それこそ「お釈

迦様の手のひら」のようなもの。そこにこそ「安心」がある

のです。(『クリシュナムルティと孫悟空』2021/12参照)


 愚かでちっぽけなわたしたちです。

 たとえ、この世の中でどんな凄いことを成し遂げたとして

も、それはそれだけのことです。

 楽しいことは楽しめばいいし、本当に「立派だな」という

こともあります。それはそれでいいのです。けれど、それも

この世の中の “お話し” です。“お話し” の中の右往左往で

す。

 愚かでちっぽけなことも、立派で大きなことも、そのまわ

りの「無のスペース」からすれば、特に違いはないのです。

わたしたちは、愚かでちっぽけであることに安心していいの

です・・・。


 ということで、「間違ってもいいのです」というお話しで

した。



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