2017年8月19日土曜日

意識について Ⅳ


 意識についてもう一つ。いちばん肝心なことを。



 「私は、ほんとうに存在しているのだろうか?」



 前にも、『荘子』の中にある「胡蝶の夢」の話を引き合い

に出しましたが、「今、ここで、こうしている “私” は本当

に “私” なんだろうか?」「 “私” とはいったい何だ?」。



 「胡蝶の夢」をあらためて説明しておきます。


 ある日、荘子は自分が蝶になった夢を見て、目が覚めた。

 目覚めた荘子は、思った。

 「今、自分は荘子だと思っているけれど

  もしかしたら、これは蝶が荘子の夢を見ているのかも

  知れないぞ」


 という話ですが、これは論理的には否定し切れないんです

ね。

 わたしたちは、〈意識〉で自分を自分だと認識しているわ

けですが、その〈意識〉が自分のものだということは証明で

きない。

 もしかしたら、今このブログを見ていると思っているあ

は、2056年のフランスの病院で、昏睡状態のまま何年

眠り続けている私かも知れないですからね。

 こんな冗談も、あらためて考えてみると「無い」とは言い

切れなくて、すこしばかり変な気分になりますよね。

 “わたし” とは、何でしょう?

 何故、“わたし” がある(と思う)のでしょう? 

 “わたし” は本当に “ある” のでしょうか?



 “わたし” というのは、前回書いた様に “〈宇宙の意識〉

の拍動” といったものです。その “わたし” は本当に “ある”

のでしょうか? どうして、 “ある” と思うのでしょうか?


 「我思う、故に我あり」と言われれば、なるほど「そう」

でしょう。でも同時に、「“我” と思う故に、“我” 疑わし」

と言えるかも知れません。


 私は男ですが、普通は男であることを意識しません。

 だって男なんですから、そんな当たり前の事実をいちいち

考えたりしません。

 ところが、わたしたちは「わたしであること」をしょっち

ゅう意識しています。「わたしは!わたしは!」と事あるご

とに言いつのったりして、“わたし” を立てようとおおわら

わです。先日も引退レースで足を痛めて、途中棄権したウサ

イン・ボルトが、「私は今まで何度も、自分自身を証明して

きた」とインタビューに答えたそうですが、何故わたしたち

は「わたし!わたし!」と “わたし” にこだわるのか?

 “わたし” が怪しいから、殊更「わたし」と言わなければ

ならないんじゃないの? “わたし” が紛れもなく “ある” の

なら、何も言う必要はないだろうし、“わたし” を見せつけ

たりする必要もないでしょう。“わたし” って、ものすごく

危ういものなんじゃないんでしょうか?

 でもまぁ、わたしを “わたし” と思っている〈意識〉があ

ることは確かですね。〈意識〉が無かったら・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・少なくとも、私やあなたにとって「世界」は無い。


 ですから、わたしが “わたし” と思える、「母体」となる

〈意識〉は間違いなく存在するといえますね。

 (そんな当たり前のことを、わざわざ言わなくてもよさそ

うなもんですが、こうしながら私は、 “わたし” という個人

持ちの〈意識〉を、〈宇宙の意識〉の一部に “降格”    

“わたし” から見れば   させているんです)


 わたしたちは、当然ながら自分の目で見て、自分の耳で聞

いて、自分の手で触れて、でしか世界を感じられません。私

があなたの目で世界を見たりする事は出来ませんから、どう

しても自分が世界の中心だと感じてしまいがちです。それ

が、わたしたちの “バカ” のはじまりです。なにせ、“わた

し” はとっても危うい存在ですからね。(控えめに言ってま

す)


 “わたし” は世界の中心ではありません。

 こんなあやふやな物が、世界の中心であるわけがありませ

ん。はっきり言って、“わたし” は脳の生み出した “お話” に

過ぎません。“わたし”、 を生み出した脳と、それが収まっ

ている身体は(今のところ)存在していますが、“わたし” 

という “真実” は存在していない。


 “わたし”とは、〈世界〉と〈意識〉の間にギャップが生ま

れたために、脳が苦し紛れに作り出した「仮想世界の住人」

に過ぎません。それは、〈世界〉と〈意識〉の間のギャップ

が埋まったら、廃棄されるべき物です。ところが、“わた

し” がいつまでも居座る為に、いつまで経っても〈世界〉と

のギャップが埋まりません。必要にせまられて脳が生み出し

た “わたし” でしたが、それに頼っているうちに、自分より

大きな存在になってしまつて、振り回されているんです。

 それはまるで、「起業する時に頼った友人が、気付いたら

経営者然として会社を牛耳っている」ようなものですね。

 「これは・・・、一体・・誰の会社なの・・・・・」


 そのような状況ですから、

 「わたしは、何の為にここにいるの?」

 「わたしは、誰なの?」

 「わたしは、何?」

 という思いが湧きあがって来るのは、当然ですね。

 (「牛耳っている」“わたし” も、「わたしは、何?」と

嘆く “わたし” も、実はどちらも同じ “わたし” なのがメン

ドウなところですが)


 “わたし” を廃棄しない限り、わたしたちに「安らぎ(し

あわせ)」は訪れません。


 《 アタマが悪さをする事を「アタマが悪い」と言う 》

わけですが、「アタマ」が犯した、最初で最大の「悪さ」が

“わたし”(エゴ)を生み出した事です。

 まあ、致し方ないわけではあるのです。人類誕生以来、

“わたし” によって生き続ける事が出来たというのは間違い

無いでしょうから。でも、その数万倍 “わたし” によって地

獄を創り出して来たことは確かです。もうそろそろ「大人に

なったら、“わたし" を処分する」というかたちを、“人間の

生き方” として普遍化させなければならないのでは? 

(どうやって普遍化させたらいいのか知りませんが。ハハ

ハ。)


 ウサイン・ボルトは「自分を証明して来た」と言う。

 その「自分」は 、“証明する必要があった「自分」” です

ね。でも、それ以前から “証明する必要のない「自分」” が

在ったはずなんです。在るはずなんです。

 その「自分」は何処へ行った?

 トラックのスタートラインに、置き去りになったのでは?

 ジャマイカの道端で帰りを待っているのかも知れません。

 ボルトが “ウサイン・ボルト” になった事は、それでイ

イ。しかし、「自分」を置き去りのままにしていては、「自

分」が可哀相だろう・・・。


 彼の「自分」は何処に居る?・・・・・・。

 私の「自分」は何処に居る?・・・・・・。

 あなたの「自分」は何処に居る?・・・・。


 「自分」は何処にも居ない。


 そして、〈自分〉は「自分」(の世界)の外に居る。







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