2019年3月6日水曜日

愛である



 『愛とは何か?』と以前書いた(2018/3)。「エゴ以外

のものはすべて愛である」と。

 愛とは、《絶対の許し。絶対の肯定》だと。

 私的にはそれでいいと思っていますが、でも、ちょっと大

袈裟ですよね。これは「愛」というより「慈悲」ですね。仏

さまの “愛” です。もう少し人間的な意味で「愛」を再定義

してもいいんじゃないかなと思ったので、今回のブログで

す。


 わたしたちは、「愛する」と言う。

 「愛」とは、人が、ある対象を肯定し、“肯定” を前提に

働きかけて関係を持つことだとイメージしている。「愛」

は、「する」ものだと考えているのが普通でしょう。私も以

前はそう考えていた。けれど、和尚(シュリ・ラジニーシ)

の言葉に出会ってから、「愛」の定義が変わった。「愛」は

「する」ものではなくて、「ある」ものだと。


 和尚はこう言っている。

 《愛は関係性ではない。愛は存在のひとつの在り方だ。た

だ、愛でありなさい》


 《愛でありなさい》というのは、「肯定する」というより

もっと謙虚に、「否定することから離れなさい」と捉えてお

けばよいだろう。自分には、どんな存在も、肯定したり否定

したりする資格も権利も無いことに気付けば、おのずとそう

なる。


 実際、いったい誰に「何かを肯定したり否定したりする資

格や権利」がある? そんなものが存在するのは、社会の約

束事の中だけ。本来のわたしたちの〈生〉には無いもので

す。エゴが、自身の安定を図ろうとして、否定と肯定のバラ

ンスゲームをしているだけ。

 あるものの否定は逆のものの肯定で、あるものの肯定はそ

の逆のものの否定で、エゴはバランスを取ろうと四六時中あ

っちへ行ったりこっちへ行ったり、休む事無く動き回る。落

ち着くことなど出来ない。

 《愛でありなさい》というのは、エゴを黙らせることで

す。「ちょっとおとなしくしてなさい」と、エゴを下がらせ

ることです。


 なにもかもをあるがままにさせておく。

 あるがままを眺めている。

 善悪、要不要、優劣、好悪などの価値判断をお休みにし

て、それと共に在ること・・。

 働き掛けることは止めて、ただそれと共に在ること・・。

 春のそよ風を肌に感じて、その心地よさに、ただ無心にひ

と時を過ごすような・・・。


 春のそよ風に限らず、どんな生命であれ物であれ、それが

そこに存在しているという不思議に目を開くことができれ

ば、エゴは退散してしまう。思考の出る幕が無いので・・。

 すべては、わたしたちの思考以前に存在している。

 すべては、意味付けされなくてもそこに在る。その大前提

を前にすると、アタマは黙ってしまう。


 《愛であること》は、言葉を介さずに世界を感じること。


 静かに壁に触れてみる。

 黙って、夜の音に耳を傾けてみる。

 街を行き交う人を、アリの行列を見るようなつもりで眺め

てみる。

 頭の上には、無限の宇宙へと開かれた空がある。その無限

の空間を見通してみる。

 自分の手を優しく撫でてみる・・・。


 言葉以前の世界は、何も拒んでいないことが分か

る・・・。それは《愛》じゃないですか?

 そして、その世界の一部である自分も、言葉から主導権を

取り戻せば《愛》ですよ。

 ちょっとロマンティックに過ぎるかもしれませんが、そう

いうことですよ。


 あなたも《愛》なんです。その本質は。

 アタマに脅され、そそのかされ、惑わされなければ、「お

だやか」で「なごやか」で「静か」で「おおらか」で「寛

容」で「満ち足りている」存在です。

 本当ですよ。

 たとえそれが妄想や自己暗示でもイイじゃないですか。世

の中の妄想やマインドコントロールよりは、ずっと上品で気

が利いてると思うな。


 自分の手を撫でてみて下さい。

 撫でてる手と、撫でられてる手は、なぜそこに在るのです

か?

 撫でられてる手は気持ちよくありませんか?

 撫でてる手には、言葉に出来ない想いが流れ込んでいる様

に思いませんか?

 その「静か」で「やさしい」感覚は、人が持って生まれた

ものじゃないでしょうか。


 エゴ以外のものは、すべて《愛》なんですよ。やっぱり。


 (再定義に失敗したようです)





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