2019年7月28日日曜日

“そう” だから、“そう” なのだ



 前回、『京都のオシッコ』という話の最後に、「次回は

『変』がテーマになるようです」と書いたので、今回は

『変』について・・・。

 と、思ったんですが、考えてみたら、前に『 “変” は普通

だ!』(2019/3)という話を書いていたのでした。だから

止めにします。



 最近パソコンを買い替えて、Windows7から10にしたの

ですが、デジタル弱者なものでデータの引っ越しやらいろん

な設定に四苦八苦して、やっと昨日、一応の片がついた。

 こういった作業をしていていつも思うのは、「理科系の奴

に文章を書かせるんじゃねぇ!」ということですね。パソコ

ンの中やその周辺には、「これでも日本語か?」といった言

葉がゴロゴロしていて、理解不能。書いた奴だけが分かって

いて、読む方に分かってもらおうという意識が欠落して

る。


 今これを表示している画面の右側にも「パーマリンク」と

いう言葉が出ているけれど、意味が分からない。日本語にし

てくれないか。

 日本は ”おもてなしの国” なんだそうだが、「私ももてな

してくれよ」などと思う。


 パソコンやネット関係で分からないことがあったときに、

多くの人がネット検索して情報を得ようとするでしょうが、

「分かりやすく解説します」などという言葉に期待してサイ

トを開くと、専門用語が解説なしに並んでいてゲンナリし

しまう、ということを多くの人が何度も経験している事でし

ょう。


 人間というものは、自分が知ったことや出来るようになっ

たことについて、知らなかった時、出来なかった時のことを

忘れてしまうことが多い。

 「そんなこと当たり前だ」という態度で、出来ない人に接

し、時にはバカにしたりして、はなはだ不親切であることは

ごく普通ですよね。


 知らない人、出来ない人を冷遇したり、バカにしたりして

いいのなら、赤ん坊はみんな何も知らなくて、何も出来ない

んだから、すべての人間は生まれてきたらバカにされてしま

う・・・。


 「そーじゃないだろ」と思う。

 人はみんな出来損ないですが、赤ん坊はそれ以前の存在で

す。出来損ないどころか、無力です。そしてみんなそうだっ

たのです。


 謙虚になれよ。

 お互い様なんだから、親切にしろよ。

 人に敬意を払えよ。

 ちょっと何かが出来るようになっただけで、自分が価値あ

るものになったように思うんじゃないよ。

 出来なかった時の自分のように、いま出来ない人に親切に

してあげろよ。


 そんな風に言いたくなるのですが、こういう追及は “文章

力の無い理科系” に対して不親切な態度だなぁ・・・。親切

って難しいなぁ。


 何かが出来たり出来なかったり、人はそれぞれにそのよう

な自分を生きるしかありません。パソコンを買い替えただけ

で、二週間もジタバタしなければならないのはくたびれます

が、それはそれで面白いことでもありますし。他愛のない話

です。

 人を傷付けてしまったり、犯罪を犯してしまったりして苦

悩することになったりすることを思えば、日々の面倒は娯楽

のようなものです。


 世の中には娯楽のように犯罪を犯す人間もいますが、それ

もその人がそういう自分を生きているということであって、

その人はその時そう生きるしかないのです。表面上の意思と

か思いがあったとしても、その意思や思いによってそう生き

ているわけではない。そう思わされ、やむにやまれずそうあ

るだけです。


 ひとりひとりが、感じ、考え、動くことは、すべて世界の

状況の一つに過ぎない。誰かを責めても意味がない。自分が

誰かを責めるということも、自分がそういう状況にあってそ

うしているのであって、自分という主体が、誰かに働きかけ

ているのではない。責めている者と責められている者がある

という状況が現れているだけで、“自分” というものが何か

をしているのでも、 “誰か” が何かをされているのでもな

い。状況の中でそれぞれひとりひとりのエゴが右往左往して

いるだけだし、その「エゴの右往左往」も状況ですし・・。



 パソコンの言葉が分からないという話が、大げさな話にな

りましたけれど、「変更が適用されるのを待機しています」

などという表現をして人をイライラさせることと、ナイフで

刺したりミサイルを撃ち込んで人を殺したりすることに、本

質的な違いはないのです。

 わたしたちの心情としては天と地ほどの違いを感じること

ですが、どちらもある状況が展開しているというだけです。

こんなことを言うと怒る人がいっぱいいるでしょうがね。


 「そんな非情な考え方をして何の意味がある」などと思わ

れるかもしれませんが、いまの私はそう書かざるを得ない状

況なのでしょう。

 あえて人にとっての意味を考えるならば、「何が起きてい

ても、世界はその時そのような状況であるというだけであ

る」という世界の捉え方をできれば、わたしたちは状況に乱

されることを軽減し、少し落ち着きを保てるのではないでし

ょうか  それもまたそういう状況ということですが・・。


 「変」について書こうとし始めただけでしたが、何の算段

もなしにこういう展開になりました。状況がこうさせたので

すね。私には何故こうなるのか分かりませんし、これがどう

いう意味を持つのかも分かりません。本質的には無意味でし

ょうしね。

 ただ、人のひとりとして、この画面に表れている状況が、

別の場所でそこの状況にはまり込んで苦しんでいる人が、そ

こから心理的に抜け出す助けになればいいなと思います。

 逆に、こんなものを読んでしまったせいで、かえって自分

の生き方に不安定さを感じてしまう人もいるでしょうが、ま

ぁそれもそういう状況でしょうし、世界は自分の都合の為に

あるわけじゃないですからね。“自分” というもの自体

が、“(自分という)状況” であって、個別に存在している

わけじゃないですから、「そういうもんなんだな」と思えれ

ばそれで済んでしまいます。
 
 “そう” だから、“そう” なんです。


 しかし、理系の奴ら、ちょっとは考えて日本語に訳せよ

な。めんどくさ過ぎるぜ。






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