2020年2月9日日曜日

アタマは、自己正当化のことしか考えない



 私は時々「サイト荒らし」のようなことをしてしまう。ブ

ログや YouTube を見ていて、気にいるとコメントを書き込

んだりするのだが、そのコメントに管理者や別の閲覧者から

お褒めの言葉を頂くことが多い。それに気をよくして、その

サイトの新しいアップが気に入ってまたコメントした時に、

そのサイトを「食ってしまう」という感じになってしまっ

て、管理者から無視されるという事態になることが度々あ

る。申し訳ない。(もちろん、単純に私がバカで無礼なだけ

だという可能性は拭えない。私のアタマも悪いからねぇ)

 悪気は無いのだが、行儀の良いことではないと思うので、

「気を付けねば」と最近は思っている。


 このブログの内容に表れているように、私の考えは非常識

である。そのうえに、ものを言うと、常識を装いながらそこ

に非常識を忍ばせて、人の常識をぐらつかせるということを

してしまうので、はなはだ性根が悪い。前置き無しにそんな

ことをする輩は無視されて当然である。


 とはいうものの、それは私の個性であり、私の欠点である

と同時に美点でもあるので、このブログの中では遠慮する気

はない。たとえ、たまたまこのブログを訪れてしまった人

が、「価値観の交通事故」に遭ったように感じたとしても仕

方がないと思う。世の中、何が起こるか分からないのだ。た

とえ悪縁でも、それをいかに上手に受け止めるかが、人の力

量というものだろうし、悪縁と思えるものが自分の人生を新

しい局面に導き、結果的に「あれは良かったな」と思えるこ

ともよくあるのだから。


 などと、自分の不作法を正当化しつつ、私は何を言おうと

しているのだろうか?


 実は、唐突に書き出して、ここまで何のアウトラインも無

しに来てしまっている。掛け値なしに “口から出まかせ” な

のだ。何が私にこうさせているのだろう?


 と、ここへ来て、こんな言葉を思い出した。


 《たとえ投げ捨てようとも

         人は自分から逃れることはできない》


 だれの言葉かも憶えていないし、内容も不正確だと思うけ

ど、そのような意味合いの言葉があった。


 誰も自分からは逃れられない。

 自分を変えようとしても、変えたと思っても、変えようと

するのも変えるのも、その方向付けをしているのは自分で

す。

 わたしたちは、“気に入らない・肯定できない自分” を変

えようとするけれど、その「変えよう」とする自分の思いが

妥当なのかどうかは分からないことです。単に、答えが分か

らなくて、思い込みで手近な解決策に飛びついてるだけなの

かもしれない。そもそも “生き方” に答えは無い。


 誰もかれもが「自分を生きる」しかない。その当たり前の

ことが、まるで異常な事のように言われたり、自身でそう思

ったりする(思わされるんですけどね)。

 生まれてから死ぬまで、ひっくり返そうがのたうち回ろう

が、なにをどんなにがんばっても自分は自分でしかない。何

か “大したもの” になったような気がすることはあっても

ね。


 みんな、「自分が自分してる」だけでしかない。それを自

分で認めて、お互いが「その人の自分」を認め合えたら、世

界はもう少しゆとりがあるものになる・・・。


 たとえば、アメリカでは銃を乱射して無差別に人を殺す人

間がよく出てくるけれども、そんな人間も、「それはそうと

して、その人はその人を生きるしかなかったんだ。その結果

は “これ” ではあるけれど・・・」と認めるようになればど

うなるか?

 そのように、どんな人もできる限り許容するような社会で

あれば、社会からの圧力が減り、逆に反社会的な問題を起こ

す人間は減るだろう。と、私は思っている。(もちろん、

「やっちまったこと」は、社会的に裁かれていいんですよ)


 なんだってこんな話になったのか? 

 私は知らない。


 自己正当化だか、他者の容認だかわからないことを書いて

しまったが、これはこれで「自分」なのだからしょうがな

い。そもそも「自分」というものは、「自分」で生きている

わけでもないしね・・・。


 もう寝よう。おやすみなさい。


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