2020年2月10日月曜日

自想現実 コロナ ④



 世の中には、あらゆるジャンルのあらゆる情報が流れる。

 A から流れた情報が B では否定され、B から流れた情報

を C が修正し、C の情報を D が訂正したりしているうち

に、結局 A の情報を肯定する形となり、それをまた B や E 

が否定するといったような混沌が繰り広げられるが、つまる

ところ、人は自分の信じたいことを信じるだけなので、自分

の気に入った「正しさ」を信じて行動指針にしながら、生き

て行く。そして “自分の信じる「正しさ」” に殉ずることに

なる。誰一人としてそこからは逃れられない。


 《「正しい」とは、そういうことにしておけば

                                      気が済むということである》


 世の中では、まったくどうでもいいとしか思えない事か

ら、世界的な影響を与えそうなかなり深刻なことまで、「あ

あだ、こうだ」と人々がとやかく言って収まることがない。


 「気のすむようにやってくれ。どうせ “気の済むようにし

か” できないし、揉めることがお気に入りならそれもしょう

がない」などと、私は思うしかない。それで私の気が済むわ

けではないが、〈もの言えばくちびる寒し〉などともいうで

はないか。余計な口出しは、事をさらにややこしくするだけ

だ。

 こうしてネットの辺境のさらに片隅で、ひとりごとを書き

連ねてお茶を濁しているのが、害が無くていい。“正しい人”

に関わると大抵くたびれるし、ロクな事にはならないしね。


 人というものは、自分が正しくないことを前提には動けな

ので、「自分は正しい」から逃れられないんだけれども、

“正しい人” というものは、「自分正しい」と信じて疑わ

ないので大変始末が悪い。

 それが、自分の都合に過ぎないなんて夢にも思っていな

い。違う立場の者を完全否定するので凶悪で冷酷だが、本人

は「正しいことを言っている」「正しいことをしている」と

思い込んでいる。ああ、恐ろしい。


 誰も彼もが世の中のことを「ああだ、こうだ」と言うけれ

ど、「正しさ」が世の中を “正す” ことは無いので、ついに

「正しい世の中」というものが実現することは無い。

 この世の終わりまで、世の中はごった返したまま続いて行

くのだろうな。可哀想なわたしたち。


 私からすれば、世の中に「正しい」ことなど存在しない

が、以前にこのブログで書いたように、最近はこう思ってい

る。

 《 「正しい」ことがあるとすればそれは

                                 「仲良くすること」だろう 》と。


 人がそれぞれ自分の「正しい」を主張して、他の「正し

い」と対立すれば、世の中は乱れ、生き辛くなるしかない。

それならば、世の中を乱さず、わたしたちが生きやすくなる

には、お互いの「正しさ」はさておいて「仲良くする」こと

だろう。違う言い方をするならば、「“アタマの言い分” よ

りも、“生きているお互い” が大事だと気付くこと」だろ

う。さらには、「“アタマの都合” よりも、“出来事の実際” 

をおだやかに受け入れること」でもあるだろう。


 わたしたちのアタマは悪い。わたしたちはみんな “自想現

実” とでもいうものに住んでいて、それを乱すものを恐れ、

嫌悪する。そして、それぞれの “自想現実” は、自身の本質

や世界の本質とはどんどんと乖離して行き、人は自分の本質

と世界の本質を経験しないままに、生を終えてしまう。私な

りの表現で言えば、「生き損ねる」。


 先日来の中国の「新型コロナウイルス」の騒動などは、そ

れが本当に「死に至る病」であったとしても、その騒ぎに振

り回されれば、生きていても「生き損ねる」ことになるだろ

う。

 深い省察も無いままに「死」を忌み嫌えば、「生」をも遠

ざけることになる。

 私は、そう信じて疑わない


 《 人は、“自分の信じる「正しさ」” に殉ずるしかない 》





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