2022年11月5日土曜日

余生



 ここ最近、自分の毎日が「余生」みたいに感じる。もちろ

ん、まだ「余生」と言う程の歳でもないけど。

 もともと目標だとか夢だとかいうものをほとんど持たず、

せいぜい「ちょっとしたいことが有る」ぐらいの人間だった

のだけれど、最近はいよいよ目的が無くなってしまった。と

いうわけで毎日が「余生」のように感じるのだと思う。い

や、そういう状況なのだから、ハッキリ言って「余生」その

ものなのだろうな。

 この頃の年寄りは「生涯現役!」なんて人も多いので、私

の方が “年寄りらしい” のかも。


 「余生」と言うと、なんだか「寂しい」とか「“終わり” の

始まり」みたいな感じがするけど、別に私は寂しくもない

し、終わりだとも始まりだとも感じない。「生きるって、そ

れが本当だろう」みたいに思っている。気楽で気分がイイ。


 《人生はグリコのおまけのようなもの》

 ずいぶん前にそんなことを書いたけど、いまは「〈おま

け〉はもういいよ」という感覚がとても強くなったのだろう

なぁ。


 目的とか夢を持つとかいうのは、人生という〈おまけ〉に

こだわることで、普通は、歳を取ってそういうこだわりが持

てなくなったら「余生」という感じなんだろうけど、人生は

生まれた時から〈おまけ〉であって、その〈おまけ〉にのめ

り込まずに、生きていることそのものの方に意識が在れば、

生まれた時から、日々は「余生」だろう。



 「ゴールは常に未来にあり、生は常にここにある」 

                  和尚(ラジニーシ)



 ゴール(目的)は常に未来にある。ゴールにこだわれば、

いま在る生はなおざりになる。

 ゴールを目指さなければ、目的意識や社会的・人間的な価

値観に拘泥しなければ、いまこの時がゴールになる。生きて

いることの最前線で、毎瞬毎瞬、ゴールし続けている。そち

らのゴールに意識が向けば、世の中の方のゴールは、ハッキ

リと〈おまけ〉でしかないと感じる。


 人生はグリコのおまけのようなものである。

 おまけに気を取られ、キャラメル(生きているそのもの)

を味わう人は少ない。


 目的や夢の無い人生は、無価値で余りもののようなものだ

ということで「余生」というのだろうけど、その「余生」と

呼ばれるものは、実は生きていることの本質があらわになっ

ていて、意識の立ち位置を間違わなければ、ふくよかでかろ

やかでほのぼのと甘い。それが、努力せずとも日々自分にや

って来るのだけど・・・。


 《生きることの本質は、

      求めることではなくて、受け取ることだろう》




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