2020年5月31日日曜日

孤独な人はいない



 今朝、トイレで座っていて、ふと思ったのが、「ここは世

の中ではないな」ということだった。

 そりゃそうだろう。究極的にプライベートな場所なんだ。

世の中であるわけがない。


 「トイレに居ると落ち着く」という人がよくいるが、世の

中から距離を置いている感覚があって、「ホッとする」とい

うことなんじゃないだろうか? 私はトイレに長くいる趣味

はないけどね。


 トイレに座っていて、さらに考えたのが、「孤独」につい

てだった。

 「一人でトイレに居ると落ち着く」という人が、「街の中

や自分の家に一人でいると孤独だ」と感じたりする。いや、

「トイレに居ると落ち着く」という人ほど、孤独を感じやす

い人なのではないだろうか  独断ですが。


 「トイレに居ると落ち着く」という人は、普段から世の中

にどっぷり浸かっていて、世の中のストーリーの中に完全に

自分をはめ込んでいるのではないだろうか。そして、世の中

の動きの中で、ある意味、常に興奮状態なので、トイレに入

っているとやっと世の中から離れることができて、「落ち着

く」のではないか。当人はそんなこと意識してはいないだろ

うけど。


 「トイレに居ると落ち着く」という人は、そのように世の

中にどっぷりな人だと思われる    私が勝手に思っている

  ので、世の中、つまり人と人との関わりの中でしか自分

を位置づけられない人だろう。人との関係性が最も重要で、

関係が持てなくなると不安でたまらなくなるのだ。つまり

「孤独」を感じる。


 私の場合、「孤独」というものは感じない。感じたことが

あったかもしれないけど、さしあたり記憶に無い。なので、

「孤独」というものがどういう感じなのかが、リアルには分

からない。


 「疎外感」というものは感じる。「ああ、ここでは部外者

なのね」ということはよくあることで(こんなブログを書い

てるような人間だからね)、そういう時は、失礼にならない

よう気を使いながら “部外者” を務めているが、それで落ち

込んだり苦痛を感じたりはしない。「自分はこういう人間だ

から、こういうことがよくあるのはしようがない」と思って

いるので。


 私はそういう人間で、「孤独を感じない」わけなんだけ

ど、それが何故かというと、「孤独」というものは、人との

関わりの中で自分の存在を確認する人が感じるものなので、

私の様に、人との関わりを自分の存在確認の基盤にしていな

人間には関係ないからです  私は《世の中なんてたしな

む程度にしておきなさい》と言っているぐらいですからね。



 というわけで、私には「孤独」というものがよく分からな

い。何なんでしょう、「孤独」って?そんなもの、本当にあ

るのでしょうか?


 「自分の周りの人間が、自分に関心を持っていない」から

といって、それを悲しんだり恐れたりするなんて、私から見

れば傲慢なんですけどね。だって、「孤独だ」という意識の

裏には、「わたしは他人から関心を持たれてしかるべきだ」

という勝手な思い込みが隠れていると思うからです。


 ほとんどの人間は、アタマにそそのかされて右往左往して

いて、忙しくて他人のことなんか本気で相手にしていないん

だから、「誰も自分に関心を持っていない」と感じることな

んて普通のことでしょうよ。


 「他人に関心が無い」ことと、「他人に関心を持たれな

い」ことは一緒でしょう。つまるところ、どちらも「自分だ

け」なんだから。


 それに、「他人に関心がある人」でも、「他人に関心を持

たれる人」でも、所詮相手は「他人」なんだから、言葉や距

離の近さという表面上のつながりということであって、それ

がどんなに濃密になろうと(「自分」じゃないという意味で

は家族なども「他人」に含まれる)、人はそれぞれ「独り」

です。「仲間がいるから、家族がいるから、自分は独りじゃ

ない」なんて、欺瞞です。


 それと、「他人に関心がある」という場合でも、「この人

が、 “わたし” に関心があるかどうかに、関心がある」とい

う関心でしかない可能性は高い。その人は、他人 “その人” 

に関心があるのではなくて、自分がどう見られてるかに関心

があるだけということです。そのような関りを一般に「人間

関係」と呼ぶようですが、それは他人に無関心な人々がお互

いを探り合っている関係ですから、結局だれともつながりを

持っていない・・・「孤独」でしょうよ。


 逆説的ですが、人間関係の中では人は「独り」なんです。

そして、人間関から離れると、人は「独り」ではないので

す。

 だって、「独り」って、関係性の中に立ち現れる感覚・概

念ですからね。人と関わるからこそ、「孤独」という意識が

生まれるわけです。

 ということで、人と関わりを持つことで「孤独」から逃れ

ようとするのは、まったくの見当違いで、逆に「孤独」が再

生産されるんですね。


 見当違いなのに、人と関わることで「孤独感」が解消され

るように思うのは、ただの自己暗示であり、錯覚です。

 「(誰かと)一緒だから孤独ではない」という、思考のお

約束によって、一時落ち着くだけです。そもそも「孤独感」

というものは錯覚です。


 そう、「孤独感」というものは錯覚です。本当は「孤独」

なんて存在しないのです。「孤独な人」も存在しないので

す。


 しかし、「孤独」あるいは「孤独感」というものとは、い

ったい何でしょう?

 なぜ、「自分は他人から関心を持たれていない」というこ

とが苦しみになるのでしょう?

 「他人からの関心」などというものに、自分の存在価値を

見いだすということが、妥当なことなのでしょうか?



 妥当なわけありませんね。自分の存在価値もしくは安心感

といったものを、他人の手にゆだねてしまっているわけです

からね。それが「孤独」の正体でしょう。



 「他人に関心を持たない人々」の中に立ち混ざって、そこ

で「自分への関心」探してる・・・、ほとんど絶望的で

す。「孤独」とは “見ない事にしている絶望を見てしまうこ

と” でしょうね。


 「独りであること」=「孤独」ではない。

 「独りであること」は、単に「独りである」ということだ

けで、すべての人間は、生まれてから死ぬまで「独り」で

す。その当たり前の「独りであること」に、人間関係の中で

「孤独」というタグがつけられ、人をネガティブな意識に引

き込んでゆく・・・。


 「他人からの関心」を考える前に、自分自身に関心を持つ

べきなんでしょう。社会の中の役割としての自分ではなく、

生きている〈自分〉そのものに・・・。


 (考えてみれば、トイレは “生きている自分そのもの” に

関心が向く場所ではあるね)







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