2020年5月3日日曜日

なぜ、死にたくないのか?



 ずいぶんなタイトルだ。

 人に「なぜ、死にたくないのか?」と尋ねたら、たぶん相

手は、しばし呆然とした後、心底呆れかえるか怒り出すので

はないか?


 「“死にたくない” ことに、なぜもへったくれも無い。“死

にたくない” から、“死にたくない” のだ!」と。


 そこで私は、こう畳み掛けるだろう。


 「『“死にたくない” から、“死にたくない”』のは、な

ぜ?」


 ホント、意地が悪いけど、「考えてみなさいよ。少しぐら

いは・・」と思うし、考えなければならないことだとも思

う。だって、人の死亡率は100%なんだから、「死にたくな

い」なんて言ってたって死ぬ。死ななければしようがない。

だったら、「なぜ、死にたくないのか?」ってことは、考え

てみるべきことだろう。

 100% 起こることなら、それを否定したり、拒絶したり

するのは、あまり利口な事とは言えない。何がしかのやり方

で、それを自分の中に位置づけ、消化するほうが、「生きる

こと」を豊かにすると、私は思う。

 というわけで、人は「なぜ、死にたくないのか?」。


 どうやら私は、ここで答えを出そうとしているようだけ

ど、ちょっと無謀過ぎないか?(何も具体的なことは浮かん

でいないのですよ。この段階で・・・)

 でも、先へ進もう。


 「なぜ、死にたくないのか?」


 いま考えたら、答えはあっさり出ました。

 「人は、わがままだから」です。(本当に、いま考えまし

た)


 単純と言えば単純。当然といえば当然の答えですね。

 生物はすべて「死ぬ」。それなのに「死にたくない」とい

うのは、単に「わがまま」なだけですね。そして、この答え

によって、私の中で問題の力点が変わってしまいました。

「死にたくない」とうことよりも、「人が “わがまま” なこ

とは、人にとって良い事なのか?」ということへ。


 人が、他の生き物と同じように「100% 死ぬ」というこ

とは、当然ながら、人も自然の一部だということを表してい

ます。

 その「自然の一部」が、「わがまま(我の、したいま

ま)」であろうとすることは、自然から「孤立」することを

意味する。世界からはみ出すことを意味する。

 「死にたくない」というのは、世界からはみ出し、孤立す

ることになるのだけれど、それって “しあわせ” なんだろう

か?


 「生・死」の循環からはみだした者を、昔は「亡霊」とか

「幽霊」とか呼んだのではなかったか?

 「魂魄この世に留まりて・・・」、死からも、生からもは

み出して、行き場を無くしてしまう。

 そして、そのような思いに囚われた人間は、死ぬ前からす

でには「生・死」の循環からはみ出している。

 生きてる内からすでに「亡霊」。

 「生・死」から外れているので、その存在は「ゾンビ」。


 「死」を厭えば厭うほど、人は世界から孤立してゆく。

 「死」を恐れれば恐れるほど、その人は「生」の実感を亡

くしてゆく。

 私はそう思う。


 あまりにも「死にたくない」という思いが強い人は、「生

きていない」といえるだろう。
 

 「なぜ、死にたくないのか?」


 「わがまま」なんですよ。

 そして、「ひとりぼっち」なんですよ。

 この世界で。


 気の毒に・・・。





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