2021年12月26日日曜日

「リスク」と「現実の困難」



 この頃テレビを見ていると、肩にワクチンを注射する映像

がよく流れる。

 数 ml の液体を注入して「はい、これで安心」。

 「お手軽なものだなぁ」と思う。


 生きていることを脅かすリスクは無数にある。その中のひ

とつの病気(それも普通の人にはリスクの低い病気)を予防

する措置をとって、「はい、これで安心」・・・。あとの無

数のリスクのことは気にならないのかい? 胆力があるのか鈍

感なのかはしらないけど、それなら、そもそもひとつの病気

なんて怖がらなくてもよさそうだが・・・。


 あの映像では、身体に具体的な薬品を注入しているわけだ

けど、実際は「気分に安心材料を注入している」という意義

の方が大きい。医学的な措置ではなくて、社会的・心理的処

置だろう。だから、その医学的効果やリスクは二の次でいい

のだ。

 不安を掻き立てて、安心や希望を売る。それは社会の常套

手段だ。それをマッチポンプという。

 古来から、どこの土地でも、特にそこが都市化するほどに

その手法が使われる。意識的にか自然発生かは別にして、そ

れは繰り返されてきた。そしてその度、人は暴走する。


 実際に起きた困難(災害など)に対処するのは、具体的で

一応の「終わり」が分かる。けれど、不安は「現実化してい

ない困難」なので、それへの対処には「終わり」が無い。恣

意的にゴールが変更できる(される)。その曖昧さが暴走を

生む。それは個人でも社会でも同じ。「現実化していない困

難」をアタマの中に持ち続ける限り、その “困難” は続く。ア

タマが悪い。


 不安と闘う人たちは、「困難は自分の外にある」と信じて

いる。けれど、「現実化していない困難」が自分の外にある

わけがない。キッカケがあることとはいえ、自身で作り出し

た「アタマの中の困難」と闘い続けているなんて誰も思って

いない。自分で止めない限り、闘いは続き、「実際には無い

困難」との闘いは暴走となって行く。だってゴールがどこか

分からないのに動き続けるのは暴走でしょ?少なくとも迷走

ではある。


 しかし、「実際に起こり得る困難」の芽を摘むことはでき

そうに思える。意義があるように思える。けれど、それはで

きるのだろうか?


 ワクチンを接種して病気を防ぐ。

 倒れそうな建物に補強をして倒れるのを防ぐ。

 そういったことは効果があるように思える。

 けれど、「病気になるかもしれない」ことや、「建物が倒

れるかもしれない」ことも、共に確定ではない。あくまでも

「かも・・・」の話だ。それは「今日は、外に出ると交通事

故に遭う」と、占い師に言われて家から出ないことと五十歩

百歩の話ではないのだろうか?


 リスクの無い行動、リスクの無い「生」、そんなもの無い

し、そもそも、“リスクの無い「生」” を生きたとしたら、ど

う感じるだろうか?


 何ひとつ世界からの揺さぶりが無いままに生きる・・。果

たして、生きていると感じられるのだろうか?

 そして、いずれは誰もが死ぬことになるけれど、「死」は

失敗なのだろうか?


 すべての人、すべての生命に訪れる「死」が失敗であるわ

けがない。「死」を失敗だと思うのは、人間のエゴ(アタ

マ)だけだ。


 今回のコロナ騒動で、現代人のお里は知れたというべきだ

ろう。

 リスクの根源であり、事実として存在する「死」を無い

とにしようとするのは不毛だ。


 また、「死」と折り合いを付け、「死」を受け入れようと

するのも浅はかだ。

 「死」を無いことにするのは論外だが、「死」と折り合い

を付け、受け入れようとするのも立ち位置がズレている。


 「生」は「死」から生み出される。そして「生」にとって

「死」が起こるのは「生」の最後の一場面だが、「死」は

「生」の結果でも、帰結でもない。ただの必然だ。「死」は

「生」にとっての「困難」ではない。

 そのように必然である「死」を忌み嫌う意識は、「死」を

想起させるものを「困難」と捉え、その意識が、「死」の不

安を増大させる出来事を現実の世界においても生みだしてし

まう。やはりマッチポンプだ。

 人は、「死」を捉え直す時を迎えているのかもしれない。


 「生きている」という立場からは、「死」を上手く先送り

してゆくことは自然だろう。けれど、「死」は「生」の反対

概念ではない。「死」は「生」の母体だ。それは人間以外の

生き物を見れば、おのずと理解されることではないだろう

か?


 人はエゴを持ったことで、「個」というものがあると感じ

ているけれど、この世界には「個」などない。人が「個」を

見てしまうだけなのだ。

 「破壊と再生」などと言ったりするけれど、「個」が破壊

され、あらたに「個」が再生されることは無い。そこにある

のは連綿たる変化の姿だけだ。その変化を忌み嫌い、「生」

と「死」を力尽くで断ち切ろうとすることは、人間らしい愚

行だ。



 この前、お釈迦さまの手のひらの上の孫悟空の話を書いた

けれど、「生」は孫悟空を意味し、「死」はお釈迦様の手の

ひらを意味してもいる。


 わたしたちは「死」の上で、おおらかに、安心して生きて

いればいいのではないだろうか?

 生きていようが、「生」が終わろうが、わたしたちは常に

「死」に抱かれているのである。「心配」はいらない。

 「死」は存外あたたかい。(たぶん)




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