2023年4月15日土曜日

くつろぐ



 「しあわせでいよう」と前回書いた。それをもう少しなじ

みやすい表現にするなら、「くつろごう」ということにな

る・・・ということなので、くつろごう。


 和尚(ラジニーシ)は、頻繁に「くつろぎなさい」と言

う。「ものごとを深刻に捉えず、くつろぎなさい」と。そん

な和尚の本(講話)の中にはこんな話がある。



  ある時、アレキサンダー大王はディオゲネスのことを聞

 きつけて会いに出かけた。

  愛犬と日向ぼっこをしているディオゲネスに会って言葉 
 
 を交わし、「自分は世界を征服するつもりだ」と話すと、  

 ディオゲネスはこう尋ねた。
 
  「世界を征服したあとはどうするのだ?」

  するとアレキサンダーはこう答えた。
 
  「世界を征服し終えたら、ゆっくりとくつろぐつもりで

 す」と。

  それを聞いたディオゲネスは大笑いをし、

  「それではまるで、人は世界を征服しなければくつろげ

 ないみたいではないか」と言い、「くつろぎたいのなら、  

 いまくつろげばいい。ここに座りなさい。もしわたしの座

 っている場所がいいのなら、わたしが脇へどけよう」と言

 った。
 
 アレキサンダーはなんともバツが悪くなった・・・。


 この話は、アレキサンダーの伝承に和尚がさらに話を付け

加えた創作だろう。けれど事の真偽などはどうでもいい。お

もしろい話だから。


 アレキサンダーは目的意識を持つ人間の象徴ですが、彼は

世界征服を成し終えたとしても、くつろぐことなどなく、宇

宙征服を目指すことでしょう。

 彼がくつろがないのは目的を果たしていないからではな

く、くつろぐことを知らないから。あるいは、くつろぐこと

を避けているからでしょう。

 アレキサンダーは世界を支配したいと思っているけれど、

当人はアタマに支配され切っている人間だといえる。自身の

中に “くつろぎ” があることや “くつろぎ” を求める声がある

ことに気付けなくなっているので、アタマによって常に何か

に駆り立てられ、動き続けている。彼は「くつろぎなさい」

と言われてもくつろぐことができない。もはや “くつろぎ” が

どういうことであるかも分からなくなっている。そして、ほ

とんどの人間がアレキサンダーより(物質的に)豊かな暮ら

しをしている日本のような国では、誰もが “くつろぐ” ことを

知らない。くつろげない。

 温泉旅館に行ったり、静かなカフェで過ごしたり、自宅で

ジャズやクラッシックを聴きながらゆっくりするように、型

にハマった時間を過ごすことが “くつろぐ” ことだと思い込ん

でいたりする。まぁ、その方がくつろがないよりはかなりマ

シではあるけれど、和尚の言う “くつろぎ” とはそういうこ

ではないだろう。


 仏教には「忙中閑あり」(ぼうちゅうかんあり)という言

葉がある。

 「閑」というのは、「のどか」「ひま」ということで、

「忙しい中にも “閑” がある」ということ。ところが私は長ら

くこの言葉の真意が分からなかった。けれど、今は分かる

(自分なりに理解して納得しているということです)。「忙

しい中にも閑がある」というよりも、わたしたちの本質は

「閑」であって、「閑の中に “忙” があったりする」というの

が本当なのだと。つまり「閑中忙あり」という方が、より適

切だろうと思っています。


 「閑」とは「のどか」ということ。わたしたちの本質

は “くつろぎ” だということです。

 ところが、わたしたちの本質である “くつろぎ” の中にアタ

マが「忙」を持ち込んでしまうので、わたしたちはくつろげ

ない。くつろぐことを忘れてしまう。妄想の作り上げた目的

に駆り立てられて、自分の本質を見失ってしまう。度が過ぎ

ればアレキサンダーのように、座ることもできなくなってし

まう・・・。


 わたしたちの本質は “くつろぎ” です。

 どんなに忙しい時でも、恐ろしい出来事に追い立てられて

いても、悲しみに沈んでいても、それらはみな “くつろぎ” と

いう本質の上で起きていること。大変な事が起きて現実的に

その事に振り回されていても、わたしたちの本質である “く

つろぎ” が乱されることはない。


 日本のあるお坊さんが言った。「安心して悩め」と。

 その言葉は、どんな悩みも、わたしたちの本質である “く

つろぎ” の上で起きていることだから「安心して」いればい

い・・・、つまり「本質である “くつろぎ” が乱されることは

ないから、それを心得ていなさい」ということを言っている

のでしょう。


 いついかなる時も、わたしたちはくつろぐことができる。

 くつろぐことができないと感じていても、わたしたちの本

質はくつろいでいる。

 猛獣に追われているように、この表面上の自分がまったく

くつろいでいない時でも、本当の自分はそのままでくつろい

でいる。それは自分の心の内を深く覗いてみればわかるこ

と。      

 アレキサンダーのような人間になってしまっていればわか

らないだろうけれど、わからなくても、本当の自分はくつろ

いでいるので心配はいらない。ただ、くつろぎを感じられな

いだろうから、それは生きている上では損なことだろうとは

思うけれど・・・。


 私やあなたは、幸運にもアレキサンダーのような人間では

ない。なので、心の内の “くつろぎ” が分かる。

 たとえ絶望のどん底にあるとしても、その絶望の周りに無

限の “くつろぎ” が広がっているのが感じられる。わたした

ち、いわゆる “普通の人” はアレキサンダーより恵まれてい

る。


 和尚が「くつろぎなさい」というのは、「わたしたちの本

質は “しあわせ” なのだから、それを忘れずに、そこからさま

よい出ないようにしなさい」ということだろう。

 仮にさまよい出てしまったとしても、それは “くつろぎ” の

中でのこと。“くつろぎ” からはみ出すことはない。ただちょ

っとばかり不快なだけ・・・、まぁ、その「ちょっと」が最

大の問題ではあるのだけれどね。



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