2019年8月18日日曜日

誰もしあわせになれない



 「誰もしあわせになれない」と言っても、社会が悪いから

とかいうことではない。どれほど社会が理想的なものになろ

うと、誰もしあわせにはなれない。


 わたしたちは誰もしあわせになれない。


 「しあわせになりたい」と思っている内は、しあわせでは

ないし、「今 “わたし” はしあわせだ」と思っても、それは

単なる自己満足であって、しあわせではない。 

 しあわせは “わたし” というものの中には入れないので、

わたしたちがしあわせになることはない。

 しあわせは、「なる」ものでも「手に入れる」ものでもな

い。

 しあわせは、人生の中の “ある” 「座標」や「エリア」で

はない。

 しあわせは、「個人」や「社会」に属するものではない。


 しあわせは、常に世界に遍満している。

 しあわせは、「存在するもの」が「存在している」この世

界の味わいのことだ。

 しあわせは、「自分が在ること」「世界が在ること」への

疑義を払拭した時に浮かび上がってくる “リアリティ” のこ

とだ。


 逆説的だが、「しあわせであること」「しあわせを得るこ

と」が(ニヒリズムではなく)どうでもいいと思えた時に、

人はしあわせを感得する。

 しあわせは、求めて得られるものではない。もともと在る

ものを求めれば、それを見失うだけだ。

 しあわせは、今ここにある。

 しあわせは、今ここにしかない。

 しあわせは、「今ここ」のことである。


 しあわせ=「今ここ」という表現は、もはやありきたりだ

けれど、それがぎりぎりの表現なので、そう言うしかない。

 「今ここ」という意識は、世界に無限に存在する「今こ

こ」に在る意識にとって、唯一無二の “絶対性” だ。

 それは、何ものにも代えることができず、何ものにも損な

われることがない。

 それを越えるものがあるだろうか?


 「何ものにもそこなわれることが無い “絶対性” 」。それ

を自分が確信できる・・・。

 それ以上の「しあわせ」などあるだろうか?


 しあわせは、自分のものにならない。

 しあわせにはたどりつけない。

 しあわせは、自分以外の “すべて” 。

 「自分」が存在する限り、誰もしあわせにはなれない。

 「自分」が存在しなければ、世界にはしあわせしかない。



 

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