2019年8月26日月曜日

良い “善” 。悪い “善” 。



 今年も『二十四時間テレビ』をやってたなぁ。もう四十年

以上やってるんだろう。

 最初の二三年は見てたかな。まだ私もナイーブな頃だった

し、初期の頃は単にチャリティとしての色合いが濃かった。

それが段々と「人間賛美」みたいになっていった。


 あの番組がやってることを一言で言えば、「がんばるこ

と」の賛美だろう。それは人情としてはわかる。けれど、

「がんばること」は必ず “目的志向” だ。「がんばること」

は必ず “現状否定” だ。「そのまま」「今のまま」じゃだめ

なのか?

 「がんばること」を賛美することは、「がんばってない

人」「がんばれない人」に自己否定感を持たせる。そもそも

「がんばる人」自身も “自己否定” ゆえに「がんばる」ので

しょう? 自己否定感を持っていない人も、「がんばるこ

と」によって自己否定感を持ち始めてしまうだろう

し・・・。

 そもそも人はなんで “自己否定” してしまうのか?「が

る」に、誰もが “自己否定感” を持ってしまうという

実がなぜあるのか、ということを考えなければいけないん

ゃないの?


  “現状肯定” はいけないの?

 「進歩が無い」のはダメなの?

 「成長が無い」のはダメなの?

 なぜことさら「挑戦」や「成長」や「進歩」や「夢」や

「目標」なんかを持ち上げるの?


 人には普通、ごく自然な「向上心」や「親切心」のような

ものがある。

 自転車に乗れるようになった時に「うれしい!」と思うの

は、ごく自然な「向上心」によるものだと思う。だれかに褒

められるとか評価されることを期待しての “目的志向” では

ないだろう。

 道を尋ねられた時に教えるのは、ごく自然な「親切心」に

よるのであって、「良い人であらねば」というような、道徳

心や社会性によるものではないだろう。

 そういった、素朴でささやかなレベルの人間のあたたかみ

のようなものさえあれば、それでいいんじゃないか?その程

度でとどめておいた方がいいんじゃないか? そんな気がす

る。


 子供から年寄りまで、事あるごとに「がんばれ」と言う。

 いったい何のために「がんばる」のか?

 誰もが、がんばらなければならない生き方を求められるの

はなぜななのか?

 誰もが、がんばらなければならない生き方をせざるを得な

いのはなぜなのか?

 がんばることが良いことなのか? ほんとうにそうなの

か?


 ほんとうは、「がんばらなくても生きられる世の中が良い

世の中だろう」と私は思う。

 自然な「向上心」や「親切心」に任せて、小さな努力や、

ちょっとした助け合いで支え合い生きてゆく世の中が良い世

の中だろうと思うのです。

 ヒューマニスティックなドラマや、大袈裟な人間賛美なん

て要らないだろう。

 地味で、大したことない、取るに足りないような、日常的

で普通で等身大の人間の思いやりや、「ちょっとした何かが

出来ることの喜び」があれば、それで十分なのだと思う。そ

れでとどめておく方が良いのだとも思う。


 自分の家の近所の掃除をするとか、誰かの落とし物を拾っ

てあげるとか。

 今までより “肉ジャガ” を美味しく作れたとか、Tシャツ

を上手に畳めるようになったとか、そんな些細なことを積み

重ねながら、小さな喜びに満たされながら生きて行く・・。

 それでいいじゃないか。


 「がんばること」を安直に “善” とするのは、もういいか

げんにして欲しい。

 「がんばれない自分はダメな人間だ・・・」と、自分自身

を認められなくて苦しんでいる人もいることを考えて欲しい

と思う。

 それとも、“がんばれない人間” は価値が無いのでしょう

か?


 ある価値観が無批判にまかり通り支配する世の中は、必ず

恐ろしい世の中ですよ。

 何かを賛美する心は、大抵、その反対のものを蔑む心です

よ。

 “善” が担ぎ上げられる時、わたしたちは心してそれを見

なければならないと思う。
 
 《「良き “善”」は静かに為される 》




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