2020年6月18日木曜日

さしあたり、今日も生きてみる



 ちょっと気になって、前回のブログを読み返してみた。

「つまらないこと書いてるな・・・」と思ったけど、まぁ、

そのままにしておこう。それはそれだから。


 生きる目的は、「死なないこと」だろうか?


 違うね。生きることは、「やがて死ぬ」ことだからね。

 そもそも、生きることに目的は無い。それが一般常識だろ

う。でも、あえて生きる目的を言うのなら、「生きてみるこ

と」ではないだろうか?


 「生きてみる」


 と言ったところで、たまたま生きていられるだけだから、

「自力で生きてみる」という感覚なら、少し傲慢ではある。

「生きさせられてるから、さしあたり生きてみる」というの

が妥当だろうね。偶然「ミステリーツアー」に参加したとい

う感じで、「どこへ行くのかな?」ってね。


 そんな感じで、“お客さん” でいた方がしあわせなんだろ

うと思うね。「生きる!」とか「生きよう!」とか、主役を

張ろうとしないで、どちらかといえば脇役でさえなく

て・・・。


 「生きてる」から、何にもせずにただただ観客でいるわけ

にもいかない。なので、照明とか音響とかの担当みたいに、

「ちょこっと働きながら脇から舞台(世の中)を見てる」。

そんな立ち位置がいいのではないだろうか。そんな感じが

「生きてみる」ということだろう。


 舞台の上は勘違いした人間がいっぱいいる。

 「生きる!」って熱を出してる人間たちがうようよしてい

て、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、トラブルばっか

り起きている。そのトラブルをトラブルだと気付けもしない

で、かえってそれに興奮して、“達成感” みたいなものまで

感じて陶酔してたりする「アドレナリン中毒者」が、早足で

行き交う・・・。人は、演じる為に生まれてくるのではない

だろうに。


 あ! いま重要なことを書いたようだ。


 《 人は、演じる為に生まれてくるのではない 》


 当然ながら、「演じる」とは “本当の自分ではないものに

なる” ということだ。演じ続けている限り、“本当の自分” 

の出る幕は無い。そして、出る幕の無いまま、やがて幕は下

りる・・・。それを「生き損ねる」という。「生きよう!」

としたはずなのに、「生きた」のは、自分が演じたキャラク

ターでしかなかったのだ。


 人は誰も、なぜだか不思議に「生きている」ものだ。

 「生きよう!」ともがいても、なぜだか不思議に死んでし

まうものでもあったりする。

 「生きよう!」とするから「生きている」のではない。ど

ういう成り行きだか「生きている」のだ。その “成り行き” 

が尊いのではないだろうか?


 “成り行き” にまかせて、今日も生きてみる。

 さしあたり、今日も生きているので、生きてみる。


 変わりばえしないことを慈しみ、変わったことを面白が

り、世界からもたらされる “今” を生きてみる。





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