NHK の『こころの時代』で、『ゲド戦記』を翻訳された
清水真砂子さんの話を聞いた。
いくつも印象に残る言葉があったのだが、ある時、オリオ
ン座を見たときに、「昔の人がこの星々をつないで、オリオ
ンという戦士のストーリーを与えてくれたおかげで、今、わ
たしたちは、星座というひとかたまりのイメージを持つこと
ができる。もしそのストーリーが無かったら、それはバラバ
ラに散らばっている星々でしかないだろうと思った」といっ
た話をされていた。
同じようなことは私も考えたことがあったけれど、今回
は、その話をとても新鮮な感じで受け止めた。そして、こう
思った。
「この世界のすべての事象はそれぞれ一つの星のようなも
ので、わたしたちがそれぞれにその事象をつないで、それぞ
れのストーリーを作り、それを世界とみなしているんだな」
と。誰もがそれぞれの星座
いま、天文学の便宜上、星座は世界共通で決められている
けれど、もともとは、それぞれの民族や地域で独自の星座を
持っていた。
北斗七星は、西洋では “大熊座” の一部だけれど、日本で
は “ひしゃく” や “舟” (高天原へ通う舟)と見ていたり、
文化背景によってそれぞれ見方が違う。けれども、それでは
西洋と日本では話が通じにくいので、共通認識として一つの
見方を決めている。
わたしたちの “世界観” も星座と同じことで、共通認識を
持たない事には社会が成り立たない為、お互いに “ある世界
観” に合わせている。けれど、それは結局便宜上のものでし
かない。それはある見方でしかないので、それが真の、正し
い “世界観” というわけではないのだ。良い社会というもの
は、一応 “ある世界観” を共有しながらも、それぞれの “世
界観” が存在することを否定しないものだろう。ひとつのド
グマが支配する世界は恐ろしいものだ。
「社会的な正しさというものは、あくまでも便宜上のもの
でしかない」という認識を常に持っている社会に、私は住み
たい。
社会が描く星座を共有しつつも、それぞれの人にはそれぞ
れの星座があることを心に留めておく・・・。
私の星座や、あなたの星座があっていいし、あるはずなの
だ。
もともと星々(事象)はつながりを持っていない。どれが
正しいというわけじゃない。
私が、あなたのつないだ星座を示されて、「面白い」とか
「美しい」とか思うかもしれないし、あなたが私の描く星座
を見て、「怖い」とか「楽しい」とか思うかもしれない。
しかし、単一のドグマは、個々の持つ「美しさ」や「楽し
さ」「怖さ」といった、さまざまな可能性を消してしまう。
それは、人にとって不幸なことだろう。
世界に散らばる “事” と “事” をつないで、私は私の星座
を描く。
それを見て、「面白い」と言ってくれる人がいるなら、素
直に嬉しい。
そして、それを見て、今までとは違う空の姿に心をひらか
れる思いを持つ人がいてくれるなら、何よりだと思う(自分
の星座をむちゃくちゃにされて、怒る人もいるだろうが、そ
れはしょうがない)。
人は、社会の描く “事” と “事” の並びにがんじがらめに
されて身動きできなくなってしまう。でも、それだけではな
いし、それが絶対でもない。
自分の目で、空を眺めるべきなんだ。
そしてたぶん、空は、それを喜ぶんだ。
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