2019年2月17日日曜日

信仰の果ての果て・・・



 昨日、ウィキペディアでマイスター・エックハルトの項を

読んでいたんだけど、エックハルトの思想の解説を読んでい

る内に『歎異抄』を読んでいる気分になった。


 マイスター・エックハルトはキリスト教の神学者だけれ

ど、その言説は完全に神秘主義で、晩年にキリスト教会か

ら “異端” とされた人です。「言ってる事が『歎異抄』な

ら、そりゃあキリスト教では “異端” だわなぁ」と思いなが

らウィキペディアを読み進めていると、「私の言っている事

もどうやら神秘主義らしい」と分かって来た。


 私のやって来た事は、いろんな宗教や思想のつまみ食いだ

し、自分では自分の考えがどういうカテゴリーに属するのか

なんてどうでもいいのだけれど、世の中のカテゴリーでは神

秘主義に属するようだ。まぁ、世の中と言っても、一般社会

の中に『神秘主義』などというものは受け入れられていない

ので、「 “ある世の中” の中では私は神秘主義だろうな」と

いうことだけども。


 なぜ、「いろんな宗教や思想のつまみ食い」が『神秘主

義』になるのかと考えるに、どんな宗教や思想も行き着くと

ころは『神秘主義』なんだろうなと思う。

 「信仰を突き詰めて、信仰を突き抜けると神秘主義に至

る」ということになるんだろう。


 この「信仰」には、哲学や科学なんかも含まれる。

 哲学であれ科学であれ、「この思考・思惟が、自分に良い

ものをもたらすか、良い場所へ導いてくれるはずだ」とい

う、合理的な根拠のない信頼がなければ続けられない。よう

するに「信仰」の一形態だと言える。

 「科学が正しい事は、科学で証明されている」とか、

「“哲学的に正しい事” は、哲学的に正しい」なんて言った

ら、バカですからね  「哲学の正しさは、科学で証明され

ている」なんて言ったら、もっとバカだし・・。


 いろんな人がそれぞれに拠って立つ所でいろんなことを考

えて、「最終回答」を求めて考えに考えて、行き詰まって、

それでも考えようとして、遂に破綻する・・。

 放棄する、諦める、絶望する・・・。自分の無力、「思

考」の無力を認めざるを得なくなって、アタマで考えていた

「信仰(根拠のない信頼)」さえ砕かれる。「信仰」を突き

抜ける。その時、何も無くなった自分の意識が、実は「《無

いもの》で満たされている」ことに気付く(《無いもの》と

は、「意味を持っていないもの」ということ)。


 それは「神性」だとか「仏」だとか「タオ」だとか「ブラ

フマン」だとか、それぞれの立場で違う呼ばれ方をするけれ

ど、“思考によって意味付けできない《在るもの》” を指し

ている。


 こんな言葉はどうだろう。


 《 信仰は、信仰を超えることを要請している 》


 「言葉」も「思考」も、存在するものを(不完全に)指し

示すことが出来るだけで、「そのもの」ではない。しかし、

その指し示すところへ進んで行けば、いつか、存在するもの

を「体験・体感」する時が来るかもしれない(来ないかもし

れない・・)。


 私は三十年以上も前に、偶然それを「体感」した。

 こうして面倒なことを考え続けているのは、あの「体験」

をもう一度したいから、できるならあの「体験」の中に生き

たいから。いや、もうすでにその中に生きている事をできる

だけ感じていたいから・・・。


 《 究極の欲望は、欲望を超えることで達成される 》


 経験した《至福》を、忘れることはできないね。



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