2020年3月21日土曜日

「音霊」



 「春宵一刻値千金」


 去年の春にそんな話を書いた。いまも、どこからかほのか

に甘い香りが漂ってくる。春の匂いがする。そんな匂いもさ

ることながら、「しゅんしょういっこくあたいせんきん」と

いう言葉の響きにも春を感じる。

 同じ漢字を中国人が読めば「ちんしょういーくーちーせん

くぉん」などという感じなんだろう(知らんけど)。


 人が言葉を生んだ時、その物(事)の印象が音となったは

ずだ。やがて、その音が逆に物事の印象を生むようになって

いっただろう。

 日本には「言霊」という考えがあって、それは言葉の持つ

「意味」に、魂なりエネルギーが宿っているということだろ

うけど、それと共に「音霊」というものもあるだろう。その

「音」の持つ印象やエネルギーというもの・・・。


 いまこれを書きながら、YouTube でケルトハープの音楽

を流しているが、そこに言葉はないし、外国の楽器で奏でら

れる、外国の音楽だ。けれど、私はそこからさまざまな気分

や感情を引き起こす印象を感じ取っている。たぶん、私が感

じるそれと同じものを、イギリスやアイルランドの人も感じ

るだろう。そのあたりの普遍性は何千年も前から変わっては

いないだろうと思う。人というものは、本質的に同じもの

だ。そこが「音楽は人種や国境を越える」と言われるところ

だろう。ならば、その “越えなければならない” 「人種」や

「国境」というものは何なのか?


 「種」であるとか「境」であるとかいう言葉は、ようする

に「区分け」なんだけど、人は言葉(文字・記号を含む)を

使うと、どうしても世界を分けてしまう。逆に言えば、「世

界を分ける為に」言葉を使う。

 それはしようがないことで、人の “必然” というものでも

あるけれど、「言霊」は世界を分けるけれど、「音霊」は、

世界をハッキリと分けはしない。


 楽譜を見ると、そこには一音一音分かれた音が書かれてい

るけれど、それを演奏する時には、それぞれの音に境目は無

い。音は言葉ではない。だから「人種」や「国境」という言

葉で規定した「区分け」を越える。


 この前、ルーシー・トーマスというイギリスの女の子のこ

とを書いたけれど(2/16)、彼女の唄を聴いていると、

「音楽は “バイブレーション” なんだ」と改めて思う。


 と、ここまで書いたところで、家の外を久しぶりに暴走族

(今もそう呼ぶのかな?)が通って行った。あれも一種の

「バイブレーション」ではあるけれど、「ノイズ」の部類に

入る(ちなみに彼らはちゃんとヘルメットをかぶり、赤信号

で止まっている。それはなおさら、彼らのバカさ加減を際立

たせる)。


 話を戻そう。音楽以前に、「音(音霊)」は「バイブレー

ション」だ。

 当たり前ですね。「音」は「振動」なんだから。


 カミナリの「ドーン!」という音。

 吹き荒れる風の音。

 木の葉のざわめく音。

 鳥のさえずり。

 小川のせせらぎ。

 浜辺に寄せる波音。


 それらの振動は、言葉を介することなくわたしたちの身体

に “何か” を伝える。

 それらは、世界の出来事を、「思考」を介することなく、

ダイレクトにわたしたちに伝える。出来事の「バイブレーシ

ョン」が、そのままわたしたちの中に入って来る。

 そこには「空気」(水や金属だったりもするが)の振動

が、肉体の振動に変わるという少しの変化はあっても、本質

的な違いは無い。世界と身体は分かれてはいない。「バイブ

レーション」が、世界と自分が「繋がっていること」を証明

する。

 音楽や自然の音に、心を躍らせたり、癒されたりするの

は、世界と自分が繋がっていることを感じられるからじゃな

いだろうか?
 

 「しゅんしょういっこくあたいせんきん」という言葉の

「音」を、イギリス人やアイルランド人に聞かせた時、そこ

にどんな「感じ」を持つか? その「音」から何をイメージ

するか? 訊いてみたい気がする。


 ああ。また、ルーシー・トーマスを聴こう。





 

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