2020年3月26日木曜日

「いま、ここ」ばっかり。



 スピリチュアル系の本や、ネット上のその手のサイトなど

を見ても、その話の中心になって、やたらと出てくる言葉が

ある。「いま、ここ」。


 このブログでも、「いま、ここ」を結構使ってる。上の

〈ラベル〉にも、「いま、ここ」がある。

 そう言うしかないし、間違ってもいないと思う。加嶋祥造

さんの代表作も『タオ~ヒア・ナウ』だし、仏教では「即今

当所」という言葉があるし、自分や世界の本質を突き詰める

と、「いま、ここ」ってことになってしまう。


 けど、「いま、ここ」はこのごろあまりに使われ過ぎて、

言葉が安っぽくなってしまったように思う(こんなブログで

も使われるぐらいに・・・)。このままでは、「いま、こ

こ」という言葉が胡散臭いものになりそうな気がしている。

何とかしといた方がいいんじゃないか? と思って、これを

書き始めた。何とかなるかどうか知らんけど。


 このブログでは、これまでに、「いま」や「ここ」につい

て何度か書いてきた。

 「今、この瞬間は、全宇宙どこでも、今なんだ」とか、

「この瞬間は、すべての過去とすべての未来が、重層的に存

在している」とか「ここは、そこだ」とか・・・。

 そういったことをまとめると、「いま、ここ」は「全時間

(永遠)、全宇宙」と言えるのだ。


 う~ん。大袈裟なことになってしまった。


 実のところ、「いま、ここ」には、その伝えたいことがあ

まりにも微妙過ぎ、かつ、あまりにも壮大過ぎて言葉にでき

ないので、そのギリギリの表現として「いま、ここ」という

言葉ぐらいしか使えないというやむにやまれぬ事情がある。

「いま、ここ」を使わないとなると、黙っているしかないと

いうことにもなりかねない。まぁ、黙っていてもいいんだけ

ど、それじゃぁ親切心が足りない。命の本質は「慈悲」なの

で、黙っているわけにもいかない・・・。で、結局「いま、

ここ」などと言わざるを得ない・・・。


 その昔、倶胝(ぐてい)という坊さんがいた。彼は、悟り

や仏教の本質のようなことを尋ねられると、いつも黙って指

を一本立てたという。


 仏像の定番の一つに “釈迦誕生仏” というのがあるが、そ

の姿は右手で「天」を、左手で「地」を指している。それで

すべて。他には何も無いので、他にする事も言うこともな

い・・・。


 倶胝の指の先の極小の一点と、釈迦の示した「天」と

「地」の無限は同じもの。それを言葉にすれば、どうしても

何かを取りこぼしてしまう。仕方がないので「いま、ここ」

などと言うしかない羽目になる。

 他の言い方を考えても、「この、ここ」とか、「これ」と

か、「その、そのまま」などという言い方になってしまっ

て、大した違いはない。それどころか、もはや、「いま」も

要らないんじゃないかとは思う。なぜなら、「いま」が存在

するかどうかも怪しいものだから・・・。だって、「いま」

は常に過ぎ去り続けてるのだからね。さらに、「ここ」も怪

しい。前に書いたように、「ここ」は「そこ」でもあるし

(『そこは、どこ?』2019/10)宇宙全体でもある。「こ

こ」はあまりにも曖昧過ぎる。

 ということで、「いま」も「ここ」も出番は無くなってし

まった。

 やはり、倶胝のように指を一本立てるしかなさそうだ。


 はて? 私はいったい何を言わんとしているのだろうか?

 「いま、ここ」という言葉の値打ちを下げないようにしよ

うとしていたはずが、その「いま、ここ」はどこかに行って

しまった。いま、ここには、「いま、ここ」は無い。


 どうやら、「いま、ここ」という意識を持つこと

は、“「いま、ここ」さえ、無い” という「無」あるいは

「空」に目覚める最後のステップなのだろう。

 究極の、ギリギリの、「言葉」の最後の一段から、「言葉

の外」へ最後の一歩を踏み出すための・・・。

 

 「いま、ここ」から、「いま、ここ」へ。



 (最後、ちょっとカッコ良かったんじゃない?)







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