スピリチュアル系の本や、ネット上のその手のサイトなど
を見ても、その話の中心になって、やたらと出てくる言葉が
ある。「いま、ここ」。
このブログでも、「いま、ここ」を結構使ってる。上の
〈ラベル〉にも、「いま、ここ」がある。
そう言うしかないし、間違ってもいないと思う。加嶋祥造
さんの代表作も『タオ~ヒア・ナウ』だし、仏教では「即今
当所」という言葉があるし、自分や世界の本質を突き詰める
と、「いま、ここ」ってことになってしまう。
けど、「いま、ここ」はこのごろあまりに使われ過ぎて、
言葉が安っぽくなってしまったように思う(こんなブログで
も使われるぐらいに・・・)。このままでは、「いま、こ
こ」という言葉が胡散臭いものになりそうな気がしている。
何とかしといた方がいいんじゃないか? と思って、これを
書き始めた。何とかなるかどうか知らんけど。
このブログでは、これまでに、「いま」や「ここ」につい
て何度か書いてきた。
「今、この瞬間は、全宇宙どこでも、今なんだ」とか、
「この瞬間は、すべての過去とすべての未来が、重層的に存
在している」とか「ここは、そこだ」とか・・・。
そういったことをまとめると、「いま、ここ」は「全時間
(永遠)、全宇宙」と言えるのだ。
う~ん。大袈裟なことになってしまった。
実のところ、「いま、ここ」には、その伝えたいことがあ
まりにも微妙過ぎ、かつ、あまりにも壮大過ぎて言葉にでき
ないので、そのギリギリの表現として「いま、ここ」という
言葉ぐらいしか使えないというやむにやまれぬ事情がある。
「いま、ここ」を使わないとなると、黙っているしかないと
いうことにもなりかねない。まぁ、黙っていてもいいんだけ
ど、それじゃぁ親切心が足りない。命の本質は「慈悲」なの
で、黙っているわけにもいかない・・・。で、結局「いま、
ここ」などと言わざるを得ない・・・。
その昔、倶胝(ぐてい)という坊さんがいた。彼は、悟り
や仏教の本質のようなことを尋ねられると、いつも黙って指
を一本立てたという。
仏像の定番の一つに “釈迦誕生仏” というのがあるが、そ
の姿は右手で「天」を、左手で「地」を指している。それで
すべて。他には何も無いので、他にする事も言うこともな
い・・・。
倶胝の指の先の極小の一点と、釈迦の示した「天」と
「地」の無限は同じもの。それを言葉にすれば、どうしても
何かを取りこぼしてしまう。仕方がないので「いま、ここ」
などと言うしかない羽目になる。
他の言い方を考えても、「この、ここ」とか、「これ」と
か、「その、そのまま」などという言い方になってしまっ
て、大した違いはない。それどころか、もはや、「いま」も
要らないんじゃないかとは思う。なぜなら、「いま」が存在
するかどうかも怪しいものだから・・・。だって、「いま」
は常に過ぎ去り続けてるのだからね。さらに、「ここ」も怪
しい。前に書いたように、「ここ」は「そこ」でもあるし
(『そこは、どこ?』2019/10)、宇宙全体でもある。「こ
こ」はあまりにも曖昧過ぎる。
ということで、「いま」も「ここ」も出番は無くなってし
まった。
やはり、倶胝のように指を一本立てるしかなさそうだ。
はて? 私はいったい何を言わんとしているのだろうか?
「いま、ここ」という言葉の値打ちを下げないようにしよ
うとしていたはずが、その「いま、ここ」はどこかに行って
しまった。いま、ここには、「いま、ここ」は無い。
どうやら、「いま、ここ」という意識を持つこと
は、“「いま、ここ」さえ、無い” という「無」あるいは
「空」に目覚める最後のステップなのだろう。
究極の、ギリギリの、「言葉」の最後の一段から、「言葉
の外」へ最後の一歩を踏み出すための・・・。
「いま、ここ」から、「いま、ここ」へ。
(最後、ちょっとカッコ良かったんじゃない?)
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