2017年12月2日土曜日

最高の虹の下にて。


 もう十年以上も前の話になるけれど、夏の仕事帰り、東の

空に虹が掛かり始めているのを見つけた。

 虹はどんどんとその弓を伸ばし、私がもよりの駅に着いた

頃には、完全な姿となっていたのだけれど、その虹は私がこ

れまで見たことも無い様な、巨大であざやかな、息を呑む程

の壮大で美しいものだった。

 駅のホームに立った私は、電車を一本やり過ごし、その虹

を見上げ続けていた。それほど、その時の虹は素晴らしかっ

たのです。(翌朝の地元の新聞に写真が載っていた)


 普段、空に虹が掛かっていても、ほとんどの人は気付かず

に歩いて行くし、気付いたとしても少し見上げただけで、す

ぐに目をそらして先を急いで行くものだけれど、さすがにそ

の時の虹の壮大さには、ホームに居る多くの人が気付き、電

車から降りて来た人の中にも、すぐに気が付いて驚く人が何

人もいた。

 「さすがに、この虹には目を奪われるよなぁ」

 そう思った瞬間、私は悲しい光景を目にする事になった。

 虹を見上げた人々は、すぐさまポケットからケータイを取

り出すと(まだスマホは無い)、虹を撮影し、液晶画面に虹

が収まっているのを確認して、ホームの階段を下りていっ

た・・・。


 信じられなかった。

 目の前には、視界に入り切らない程壮大で、一生に一度出

会えるかどうかというほど壮麗な景色が広がっているのに、

たった2インチの画面に情報として切り取って、それで良し

としてしまえるなんて・・・。そうする人が、圧倒的多数だ

なんて・・・。


 何の為に目を持っているのか。

 その目は、単に視覚情報を集めるセンサーに過ぎないの

か・・・。

 この虹の美しさに心を奪われないなんて、そんな感性で生

き続けて、いったい何に感動し、何を喜びと出来るのだろ

う? 大袈裟ではあるけれど、私はこの国とこの国の人々の

将来を案じた・・・。

 「“しあわせ” が何だか分からないんじゃないだろうか」

と。


 日々の暮らしの中にも、普段通る道の上でも、美しい事や

安らげる景色に出会う事はいくらでもある。

 微笑ましいシーンや、嬉しくなる光景も目にする。

 しかし、多くの人の目や耳や肌には、感受性を制限するフ

ィルターがかかっていて、あらかじめ想定された種類の感動

しか受け付けない仕組みになっている様だ。

 とてもせまい、せまい世界で、自分を揺さぶる物に出会わ

い様にして、自分を守っているんじゃないだろうか。

(『感動から逃げるな!』(17/11)の回を参照ください)

 世界の1/3は会社や学校にあり、残りの1/3はスマホの中

に在り、残りの1/3で食べて・寝て・家族や友人と接す

る・・・。そんな事なのだろう。


 世界も人も、単なる情報ではない。


 “歩きスマホ” が嫌われるのは、その行為が「傍若無人」

  傍らに人無きが若(ごと)し  な振る舞いだからだ。

 周りに居る人達を、人間と見做していないからだ。

 目の前にある世界をシャットアウトし、そこに存在する

人々を無いものとする。人扱いされなければ、誰だって不愉

快になる。


 私がよく言うセリフで「人間ばっかり相手にしていると、

アタマがおかしくなるよ」というのがあるのだけれど、最早

人間だって相手にしない。


 虹なんか見ない。

 どこの誰だか知らない人間だって見ない。

 見るのは、自分が囲い込んだ小さな世界に収まるものだ

け。

 「自分ばっかり相手にしてると、アタマだけになるよ」

 ・・・・。


 アタマの中にある喜びは、小さな刺激と、さもしい優越感

だけなのに・・・。
 

 世界を見て、感じて、世界の中に自分を捉えなおす事が出

来なければ、わたしたちの〈生〉は貧しいままに終りを迎え

ることになるだろう。


 「しあわせとは何か?」


 しみじみと考えてみる時間を、時折持つべきだと思うのだ

けれど・・・。 




 

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