2017年12月26日火曜日

「神の体内」で・・。


 今日、カフェチェーンの窓際の席で、コーヒーを飲みなが

ら外を行き交う人を眺めていたら、「神の体内」という言葉

が浮かんだ。人の流れが、あたかも赤血球の流れの様に見え

たのです。



 私は特定の宗教を信仰していないし、〈神〉という言葉

は、あまりにも手垢にまみれているので使いたくはない  

これまで、数え切れない人間が〈神〉の名の下に暴力をふる

い、〈神〉の言葉として自身の迷いを正当化してきたから。

〈神〉なんて言葉を使うと、何処から石が飛んでくるか分か

ったもんじゃない。

 けれど、人の流れが赤血球の流れの様に見えてしまったも

のだから、ほかの言葉で表現したのでは、どうもしっくりこ

ない。

 〈宇宙〉とか〈存在〉とか〈道(タオ)〉という言葉で、

同じものを指し示す事もできるけれど、それだと「人が赤血

球の様に、この世界の中の構成要素のひとつとして動いてい

る」といったイメージに繋がらない。仕方なく、リスクが大

きいけれど、〈神〉という言葉を使うしかなくなった。

 わたしたちは「神の体内」でうごめいている細胞の様だ。



 わたしたちの身体の中で、数え切れない種類の、無数の細

胞達が、それぞれの役目を果たしている。

 赤血球は脳の神経細胞が何をしているのか知らないし、肝

臓の細胞は毛根の細胞の役割を知らない。免疫系の細胞は、

侵入してきた細菌などを殺すだけでなく、もう不要となった

自分の細胞を破壊したりもする。

 それぞれが、どんな意味があるのかは知らないまま、各々

の役割を果たしてるのに、それでいてわたしたちの身体は絶

妙にコントロールされて、こうして生きている。



 この身体全体の活動をコントロールしているのは、DNA

に書き込まれたプログラムだと言っても良いのだろう。

 卵子が精子と受精した瞬間、生命の〈Enter〉キーがおさ

れ、プログラムが始動する。それは、日本全体のコンピュー

ターを一つのミッションに使う様な、想像を絶する、壮大な

仕事だ。

 それぞれのセクションは何が行われているのか知らない。

知りようもない。では、DNAは知っているのか?

 DNAも、そのミッションが何かを知らない。

 前のステージで〈Enter〉キーを押され、自身のプログラ

ムを実行してきただけなのだから。そして、前のステージの

DNAも、その前のステージで〈Enter〉キーを押されて動い

て来ただけなのだ。



 気の遠くなるような階層で、フラクタルなシステムが組み

上げられていて、それぞれがミッションをこなしているのだ

が、最終的な(「最初の」というべきか・・)目的はどのセ

クションも知らない。ましてや、末端の取るに足りない程の

端末には知るよしもない。

 人間というのは、その〈取るに足りない端末〉が〈自我〉

に目覚めてしまったものの様だ。

 〈自我〉に目覚めて、「このミッションの意味は何か?」

と問い続けている。



 しかし、赤血球が自身の役割を知ったところで何になる?

 赤血球が自身の役割が分からないとか、気に入らないとい

って、仕事を放棄したら? 身体は死ぬ。

 身体が死ねば、赤血球も死ぬ。

 赤血球は、赤血球として生きればいい。

 自身の役割をこなせばいい。



 ところが不幸にも〈自我〉に目覚めてしまった細胞たち

が、本来の役割以外のことをやり始める。

 余分なものを分泌したり、無限に増えようとしたり、別の

細胞になろうとしたり、他の細胞を攻撃したり・・・。

 赤血球が、肝臓細胞にも、神経細胞にも、免疫細胞にもな

らなくていいのに。ましてやガン細胞にならなくていい。そ

れぞれが、それぞれに、それぞれのことをやっているのだ。

 何も知らないまま、そのままでいいのに・・・。



 世界という〈身体〉の中でも、人間という〈細胞〉がそん

なことをやっている。『何か』が分からなくて・・。



 分からないままでいいのだ。

 分かろうとしない方がいいのだ。

 世界という〈生命〉の中で、自分という〈生命〉を生きれ

ばいいのだ。

 もちろん、それは個人や社会のエゴ(自我)にエネルギー

を注ぐ事ではない。

 もっともっとシンプルに、出来るだけ〈生命〉の働きに寄

り添って生きることだけれど。



 「神の体内」で〈自分という生命〉を生きる。

 何も知らないまま、ただ生きる。
 

 そんなイメージは、あなたの心を少し安らかにしないだろ

うか?
 

 生まれた時から、わたしたちは「神の体内」に生きている


 その理由は知らない。

 知らなくても生きている。

 知らなくてもいいのだ。

 知ろうとしない方がいいのだ。

 何も知らず、何も知ろうとせず、「神の体内」に居ること

に安んじて、ただ生きる。

 宗教の違いや、宗派や思想の違いなど超越して、本当の

〈信仰〉とは、そういうものだろう。



 (どうやら、私も〈信仰〉を持ってしまったようだ。

  れがどんな〈神〉か、どう呼ぶのかは知らないが・・。

  ・・・まぁ、そんなことも知らない方がいいのだろう)


 そういえば、《理由を知ろうとすることは、無限に続く

望と不安です》と、だいぶ前に書いたんだった。

 自分で忘れちゃうんだよね。

 でも、そんなもんでいいんだろうね。





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