2022年7月16日土曜日

ゴロゴロ・・・



 10分ほど前から、外でカミナリが鳴っている。まだ雨は

降りだしていないけど・・・。

 私は雷が好きで、空が「ゴロゴロ」いい出すとウキウキし

てしまう。稲妻がよく見えるような時などは、ベランダで1

時間ぐらいながめていたりする。もちろん、だだっ広い所で

そうなったら、急いで安全な所へ向かいますけどね。


 雷は、日常の生活を過ごしながら、自然の脅威を感じられ

る素晴らしいイベントだと思っている。稲妻は美しいし、あ

の音に心は揺さぶられるし、雷の音と稲妻の閃光を浴びる

と、自分が生きている実感のようなものを感じる。


 「かみなり」は「神鳴り」だし。「稲妻」は「稲の妻」

(昔は「夫」のことも「妻」と表現した)なので、田んぼに

雨を降らし、稲を実らせるものだと捉えられた。どちらも、

人が生きることに大きな影響を与える「天の力」として畏れ

敬ったことから生まれた名前でしょう。

 神社のしめ縄は、本体が雲を表し、そこから下がるギザギ

ザの紙垂は稲妻を、藁のふさは雨を表しているのでしょう

が、そのように神社のシンボルとなるぐらい、雷は日本人に

とって意味深い自然現象なのだと思う(私なりの見方です

よ)。けれど、そのような自然現象に対する畏敬の念を、い

まの人たちがどれぐらい持っているのだろうか? 大多数の人

にとって、雷は単に「恐いだけ」。激しい雨はただ「迷惑な

だけ」なのかもしれない。そうだとすればもったいない話だ

と思うし、生意気だとも思う。


 人間が生まれるはるか昔からずっと続いて来た自然の営み

を、人間というちっぽけな存在が、「迷惑なだけ」と思うな

ら生意気でしょ?

 雷や大雨が人の命を奪うこともあるから「恐い」のは確か

だけども、恵みももたらすし、自然の巨大な力と不可思議

に、生命力が鼓舞される面も有るだろうから、「恐いだけ」

ではもったいない。


 人間がまだ思考することがなかった太古の昔、思考するよ

うになってからもかなりの間、人々はただ雷を恐れるだけだ

ったことだろう。けれど、いまは雷とはどういうものかと理

解し、安全な場所を確保することが容易くなった。おかげ

で、雷鳴が轟いても、稲妻の閃光が目の届く限りを照らし出

しても、ただ恐がるだけではなく、ポジティブな精神の揺さ

ぶりを受け取ることもできる。私はそれが有り難く、うれし

い。


 アタマは悪さをする。けれど「善悪」「良否」を関わらせ

ることのない、世界のニュートラルな理解は、「命」を実感

できる場面を持たせてくれたりする。

 頭がアタマに乗っ取られないように、時折り「雷鳴」に揺

さぶられてちっぽけな自意識を振り落としてもらうのも良い

んじゃないだろうか。


 などと書いていたら、雨は降らず、雷鳴も止まって静かに

なってしまった・・・。残念。




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