2024年2月18日日曜日

環境問題



 今回は環境について。といっても「エコ」方面の話じゃな

くて、そもそも「環境」とは何なのかという話です。


 環境というと、普通は〈 ある任意のモノのまわりの状態 〉

だと考える。 人であれば、その育った状況とか今置かれてい

る状態だとかを考える。けれど、私は自分の身体や心の中の

状態も環境だと考えている。


 例えば、〈 寒いからダウンジャケットを着ようと思った

が、この半年ですごく太ったので着るのをあきらめた 〉とい

う場合。〈 寒い 〉という外的環境と〈 太った 〉という内的

環境が〈 ダウンジャケットを着ようとしたけどあきらめた 〉

という目的と結果を生みだしたわけです。

 また〈 太った 〉という身体的な環境ではなく、〈 ダウン

ジャケットのデザインが流行遅れだから着るのをやめた 〉と

いうのであれば、心理的環境によって同じ結果が生まれたこ

とになります。

 このことで人の目的・行動は、外的環境と身体的・心理的

な内的環境で決まっているのが分かりますが、そうすると重

大な疑いが立ち現れて来ます。

 「自分はどこにいるのか?」ということです。


 外の環境があって、心・身体という中も環境だということ

になれば、いったい「自分」というものは何処に存在できる

のでしょうか?

 目的を持ち、結果を得た「自分」というのは何なのでしょ

うか?「意識」が自分でしょうか?

 けれど、〈 このダウンジャケット、流行遅れだな・・・〉

という想いを持ったのは「意識」ですから、「意識」が自分

だとしたら、環境としての「意識」と、自分という「意識」

の二つの「意識」があることになりますが、そんなものある

のでしょうか?

 「主観」と「客観」ということも考えられますが、〈 流行

遅れでカッコ悪い 〉と思う方と、〈 寒いからダウンを着た

い 〉と思う方のどちらが「主観」なのでしょうか?


 〈 寒いからダウンを着たい 〉というのは身体の求めであ

り、〈 流行遅れだから着れない 〉というのは心の求めです

が、身体と心とどちらが「主」なのでしょうか?


 わたしたちが判断の難しい事に直面すると、「やれ!」と

いう声と「やめろ!」という声がアタマの中を駆けめぐりま

すが、どちらが「主観」だか決まっていないので、葛藤する

ことになるわけです。つまり「主観」も「客観」も無い。わ

たしたちは、その時々に “主観・客観ごっこ” をしているだけ

であって、「自分」というものは無い。


 身体が「自分」なのでしょうか?

 他人の臓器を移植することはできません。移植適合者の臓

器であっても、免疫抑制剤を使い続ける必要がありますか

ら、身体はあきらかに「自分」です。けれど、人は自殺でき

る生き物です。その時には心が主導権を握ります。そういっ

たことを鑑みると、身体が「自分」と言い切るわけにもゆき

ませんし、〈 寒い 〉という外的環境に動かされたりと、外的

環境に主導されますから、外的環境が「主」ということも言

えてしまいます。その上、外的環境と内的環境のすべてが意

識できているわけでもありません。わたしたちの身体と心は

無意識のうちに環境に動かされてもいます。・・・自分はど

こだ・・・。



 ・・・と、ここまで書いて来て先へ進めなくなってしまっ

た。無理して進めると、いわゆる「スピリチュアル」や、い

わゆる「宗教」になってしまう。確信だか妄信だか分からな

いことを書いてしまうことになる。そういうのは最も避けた

いところです。


 ですが、敢えて話を進めてみるなら、「自分」というもの

がどこにあるのか分からないのであれば、「自分」の外にあ

るはずの「環境」というものも、何だか分からないものにな

って来ます。「自分」というものの対概念として「環境」と

いうものがあるからです。それなら「環境」=「自分」とい

うことになるのかもしれません。つまり「世界は自分だ」。


 誇大妄想になってしまいましたね。でも「自分」というの

は、「世界」がやってる “悪ふざけ” か “いたずら” のような

ものかもしれませんよ。

 もしそういうイメージが的外れでないのなら、“いたずら” 

になり切ってみるのは面白そうじゃないですか?





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