2024年1月12日金曜日

自分を高める 👨‍🦱 ?



 テレビでやってる転職サイトだかのCMで、出演者が「自分

の市場価値を・・・云々」とか言うのがある。あれ「自分は

商品だ」と言ってるのと同じだけど、そんなんでいいのか

い?

 スキルを高めるのも、人間性を高めるのも自分の商品価値

を高めるためで、そうやって自分を売って、その先は・・?


 このブログで書いている内容でも、読むと「自分を高める

ための話」という感じを持つ人もあるかもしれないけれど、

書いている私からすると「背伸びして自分を高く見せようと

しているのをやめるための話」なんですね。

 背伸びしているから不安定で、それゆえに問題に巻き込ま

れて苦しむのが人間一般だと、私は考えているわけです。誰

もが、しなくていいことをしなくてはならないと思い込んで

しまっている。いや、思い込まされている。


 「見せるための自分」って何なんでしょう?

 「自分の市場価値」って何なんでしょう?

 「自分を高める」って言うけど、どういうことが「高め

る」にあたるのでしょう?

 そもそも「自分を高める」なんてことできるのでしょう

か?


 いろいろと高いスキルを身につけていれば、その分、世の

中で生きやすくなったりはするのでしょう。人間的に自分を

高めていれば、人に好感を持たれて嬉しいとか、安心感とか

も感じられるでしょう。けれど、そういうことは、そういう

ことが価値あることと見做されるシチュエーションでの話

で、自分の表面に価値があるということになっているもの

付け足したということであって、「自分を高めた」というこ

とではない。自分はそのままです。


 世の中で役に立つことや、良い人間と思われるパーソナリ

ティを身に付けることは良いことでしょう。わたしたちは人

との関わりの中で生きているのですから。けれど、そうい

う、人と関わっている部分を自分だと思ってしまうことは苦

しみを生む。その部分は評価の世界に有って、評価というも

のはシチュエーションが変われば違ってくるので、その変化

に翻弄されるからです。比較の世界にいる限り、ひととき喜

ばしいことがあってもすぐに揺り戻しや反作用がある。


 「高い」とか「低い」とか考えるのは、比較の世界に意識

があるからです。それぞれの人の本質に「高い」も「低い」

も無い。高めることも低めることもできない。本質は評価の

世界から外れたところにある。そのままで、絶対。


 ほとんどの人は、何が起きるかなんてことを真剣に考えて

みないで自ら比較の世界に入り込む。いや、考えられない

ように仕向けられてそうする。その中で「自分の市場価値」

なんてことを本気で考えているのは極端な人だろうけれど

(もしかすると結構な割合かもしれないが・・・)、いくら

なんでも変だとは思わないのだろうか?

 自分が商品なら、それは人身売買です。自ら奴隷になろう

としているわけですよ。だから「社奴」「社畜」なんて言葉

が生まれる。

 「社奴」「社畜」というのは「会社の奴隷」「会社の家

畜」という日本的なイメージだけど、決して日本だけではな

い。

 世界を見れば誰もが「市場社会の奴隷」であり「市場社会

の家畜」になっている。経済の奴隷です。それを「夢」とい

うような言葉で欺かれて自ら望む・・・。


 バーノン・ハワードがこう言っている。

 「社会というものは、一方の手で殴り倒し、もう一方の手

で助け起こし、助け起こしたところだけを取り上げて英雄的

行為とみなす」と。殴り倒す方が多いことに気付いても良さ

そうに思うのだけど。


 殴り倒されないようにするためにはどうするか?

 立たなければいい。

 なるべく寝てるがいい。


 そうはいっても、生きる為には社会の中で立っていなけれ

ば仕方がない。けれど「自分を高める」なんて言って社会の

中で背伸びなどしていると、殴り倒された時のダメージはさ

らに酷くなる。


 自分を高めない。

 自分を固めない。

 自分を侮らない。

 価値や形にならない自分の本質に目を向ける。

 飾りなし、掛け値なしの自分がここにある。それは愛おし

いはずです。

 自分が自分を愛おしいと思うのは当たり前過ぎるはずだけ

ど、社会は、人が自分で自分を愛おしいと思うようにさせな

いようにする。比較の世界に誘い込む。


 自分を低めてみればいい。徹底的に低めて、徹底的に小さ

くなって、出来得る限り無価値になってみればいい。それで

も自分は在る。その絶対性の価値は計り知れない。 



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