2017年6月17日土曜日

無意味な人生

 ちょっとばかり、〈意味〉の“意味”を考えてみる。
 

 のっけから、いきなり破綻してるんですが、人の考えの根

源的な事柄を考えようとすると、まず最初に破綻します。と

言うか、破綻から入ります。



 「〈意味〉の意味」なんて最悪です。他には、

 「〈正しいこと〉は正しいか?」とか、

 「〈自分〉のことを考えている“自分”とは誰か?」とか。



 それは、もう仕方のない事として、〈意味〉の“意味”です

が、まず漢字を分解してみましょう。



 「意」は、「音」の下に「心」と成っています。(「音」

を「立」と「日」に分解すると、収拾がつかなくなるので、

止めときます。・・・「味」の分解も止めておきましょ

う・・・、・・・えらいことに手を出したみたいです・・)

 ・・・・「意」というのは、“心の音”と採るか、“音の

心”と採るか? 〈音〉は五感の中の一つで、〈心〉の構成

要素か、あるいは〈心〉に入力される情報の一種なので、

〈心〉より下位の概念とした方がよいでしょう。ですから、

ここでは「意」は“心の音”と考えることにします。

 じゃぁ“心の音”というのをどう見るか?

 「心から出てくる音」あるいは、「心に響く音」。

 「心から出てくる」場合には、その時点で(アウトプット

される時点で)もうすでに「意味」を成していると考えるべ

きと思うので、これは採用しません。もちろん「心に入って

来る音」ではありません。入って来る情報に「意味」は有り

ません。その時点では、単なる“刺激”でしかありませんか

ら。

 ですから、「心に響く音」としましょう。(口から出まか

せですね)

 しかし、「心に響く・・」というのが、書いていてしっく

り来ません。・・・・・「響く」というより、「共鳴」とし

た方が良さそうです。心に入って来た刺激(情報)に対し

て、“ある特定の意識的反応”が“共鳴”した時、その刺激がそ

の“意識的反応”にコードされ、「意味」が付与されると。


 心(脳)に入って来た刺激は、最初に〈快〉・〈不快〉に

振り分けられると思います。その後、それぞれのカテゴリー

の中でさらに分類され(快・不快にも色々あります)、その

刺激の強さによって処理される。ここまでは、無意識のレベ

ルでのプロセスです。この時点でも「気持ちイイ」とかい

う、大雑把な〈意味〉はありますが、言葉として機能させて

ゆくような、詳細な〈意味〉が付与されるのはこの後になる

でしょう。

 “何が“・”どのように”・”どれぐらい”気持ちイイのか?

 そのようなことを認識する為には、わたしたちが受け取る

さまざまな刺激にラべリングする必要があります。

 単純な一次的ラべリング。それらを幾つか組み合わせた二

次的ラべリング。二次的ラべリングをさらに組み合わせた、

高次のラべリング。そうやって、それぞれの刺激に〈言葉〉

を対応させて定着させます。

 単漢字を組み合わせて、熟語ができ。熟語を組み合わせ

て、四文字熟語や文となる。(四文字熟語も文ですが)

 それらの、ラべリングが“意味付け”の工程ですね。ラべリ

ングしなければ、さまざまな刺激が混沌として区別できませ

ん。そのままでは、刺激(情報)のカオスのなかで、わたし

たちは自分の立ち位置が分からなくなってしまいます。

 “意味付け”は、わたしたちが自分の座標を定める為に、ど

うしても避けては通れないことです。


 「意味のない事」や「意味が理解出来ない事」に、わたし

たちは不安や不快を覚えます。“何か分からない物が空を飛

んでいる”時、分からないままにしておくより、〈UFO〉と

いう意味付けをした方が落ち着きます  〈UFO〉というの

も“何か分からない”ということでしかないですけどね。それ

で落ち着くのですから、人間はカワイイものです。

 そのように、わたしたち人間は“意味付け”をせずには、不

安で生きられません。ですから、どんな事にも〈意味〉を見

出そうとするのですが、その対象は人によって違ってしまい

ます。それが“社会性の違い”ですが、“個性”と呼んでも良い

場合もあるでしょう。


 株式に興味の無い人は、株に関する事柄の意味を保持しよ

うとはしませんし、サッカーに興味がなければ、DF・MF・

FDなどという記号に意味を求めません。生きて行くうちに

社会の中での自分の座標が固定されてゆき、その座標の枠か

ら外れたものには、意味を持たせる必要がなくなります。

「それが無くても、それが何か分からなくても、生きて行く

のに問題が無い」と判断するんですね。ブラック企業の経営

者には、“従業員の健康”なんかには「意味が無い」。人それ

ぞれに、自身の人生の座標があって、それ以外は「意味が無

い」し「重要ではない」。この、“座標の違い”が世の中に

様々な問題を生むんですね。  〈座標〉を〈価値観〉と言

ってもいいでしょう。


 〈意味〉とは“グラフの目盛”、あるいは“地図の区画や記

号”といったものですね。「わたしたちを世界の中に安定さ

せ、考え・行動する指標となるもの」・・・の筈なんです

が、困ったことに個々人の座標より世界は遥かに広い。その

上に、ひとりひとりが違った(そして不正確な)地図を頼り

にしているので、常に衝突し、さまざまな問題が止めどなく

起り続ける。(あなたの家は、土建屋からみれば「撤去すべ

き無用の建物」で「本来、空地であるべき場所」かも知れま

せん。使ってる地図が違うのです)


 わたしたちは自分の地図(意味付け)が、かなりいい加減

ものだと意識する必要がある。もともと、この世界には

〈意味〉など存在していない。〈意味〉を求めるのは、人が

人間の根源的な不安から逃れたい為で、それこそが人間の

〈業〉に他ならないわけですね。


 〈意味〉を求め、“意味付け”をして不安を消そうとするの

ですが、その〈意味〉が却って問題を生み、それどころかよ

り一層不安を増大させる・・・。仕方のないことです。

 しかし、人はその苦悩から逃れたい。そこで様々な宗教を

生み出し、数々の哲学者・思想家が現れ、占いに縋った。

「苦悩を具体的に消そう」と科学や政治に力を与えて来た。

しかし、それらは結局「大きめの座標(地図)」でしかな

く、座標の周縁で、より大きな問題を生みだしてさえいる。

 その苦悩から自由になる為には、〈意味〉から離れるしか

ないのでしょう。


 “意味の無い世界”に立つ。

 自分たちを取り巻く“意味”から離れて、世界を観る。

 “意味”から離れては生きられないのですが、“意味の無い

世界”を生きるベースとして、そこから“意味の世界”(世の

中)に意識を送り出して、具体的な暮らしの事柄をこなして

生きて行く。そこに、人が本当に求めるべき幸福があるんじ

ゃないかと

 仏教や老荘思想の教えるところの根本は、そういうことで

しょう。


 《 世界は無意味です。  おあいにくさま。

             そして、おめでとう! 》



 

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