2017年6月7日水曜日

生まれ変わったって・・・

 
 
    もう四十年以上も前の話(古すぎるね)

 私が中学一年のとき、友達と近くの高校の文化祭に行きま

した。

 校内をぐるぐる廻って、お化け屋敷に入ったり、ポップコ

ーンを買ったりしながらうろついてる内に、いつの間にか天

文部の部室に入り込みました。

 中には男子部員が一人いて、いきなり入ってきたぼくらの

相手をしてくれて、部室の上にある望遠鏡のドームを見せて

くれたりしていたんですが、そこに女子部員が一人入ってき

て、ぼくらを見てこう言いました。「この子等、何ゆえここ

に居るの?」。

 その一言を聞いた瞬間、「あっ、ぼくここに居るべき人間

や無いんや」と思って、すぐさま一人で外へ出たんです。

 その時の女子部員の声を、今でも憶えています。

 あれが、“自分”というものを、初めて客観的に意識した瞬

間だったかも知れません。それと同時に「自分は場違いな人

間だ」という思いに取りつかれた瞬間でもありました。


 それ以来、今に至るまで、この「自分は場違いな人間」と

いう感覚をずっと持ち続けて来ました。

 さすがに自分の家の中では、まず思いませんが(というこ

とは、時には思うということです)、誰と居ても、どこに居

ても「どうも、自分は場違いだな・・」という思いが、しょ

っちゅう浮かび上がって来ます。

 それは人に対してだけで、山や森の中など、人の居ない自

然の中ではその感覚は生まれません。

 もちろん、四六時中そんな感覚に襲われてるわけではあり

ません。もしそうなら、とっくに人格が破綻しているでしょ

う。幸いなことに、社会生活を送れるレベルでとどまってい

ます。

 しかし、人間関係を円滑に保つために、かなりのエネルギ

ーを費やして来ましたし、ずっと苦しい思いをして来まし

た。ホントに疲れるんです。


 何故、「自分は場違い」だと思うのか?

 「どうも、私の〈価値観〉・〈世の中の見方〉が、普通の

人とはかなり違っているせいらしい」と気付いたのは、二十

代でした。

 世間一般の考え方・物の見方になじめない。

 言い換えると、“幻想(約束事)” を共有出来ないんです

ね。

 それは、「自分の価値観・考え方とは違う」というのでは

なくて、「何を言っても、それは “幻想(約束事)” でし

ょ?」という思いが、自分の意識のベースとして、抜き難く

横たわっていて、人のやっている事が不自然に感じてしまう

ことが、日常的にあるんです。

 私にとっては、「それは “幻想” でしょ?」というのが自然

な状態で、それを踏まえた上での “世の中(人間関係)” なん

です。


 ですから、生きる上での基本的な立ち位置が違うので  

一段低い、または高い  どうしても “人との間に透明な壁

がある” という感じが生まれやすい。その結果「自分は場違

いだな」ということになつてしまい、居心地の悪さに居たた

まれなくなる・・・。そんな事を繰り返して来ました。


 このようなことを言葉に出来る様になったのは、二十歳ご

ろ岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」(青土社)を読んだお

かげでした。(「唯幻論」ですね)

 「ものぐさ~」を読んだ時、「自分の事が書いてある」と

思い、「俺の感じていたことは、こういうことだったんだ」

心の底から納得して、かなり見通しが良くなりました。

(ただ、気を付けていないと “ニヒリズム” にハマり込んでし

まいますけどね)

 でも、それで「場違い」な感じや「居心地の悪さ」が解消

されてしまったわけではありません。ただ、自分の感じる

「場違いさ」を一歩離れて見ることが出来る様になって、多

少コントロールが効くようにはなったんです。


 そんな、なかなか苦労の多い生き方になってしまったんで

すけど、自分では幸せな事だと思っています。上手くコント

ロール出来れば、人間の価値観に振り回されずに、根源的・

本質的な幸福感を持てるからです。

 根源的な幸福感とは、“「(ただ)生きてるなぁ」という

不思議に浸る” といった感覚ですね。

 何かとの兼ね合いや、何かと較べて “良い” という事でもな

く、「何故だか知らないが、今、生きている。」と。


 ほんとに不思議です。「なんだ、こりゃぁ」とか、いつも

思いますね。ほんと、生きてるって何なんでしょう? 訳が

分からない。何か分からない。でも、分からないまま、その

ままに身を置くことが出来ると、得も言われぬ甘美なものを

感じます。

 好きな音楽を聞いたり、歌ったり。美味しいコーヒーを飲

んだり、良い映画を観たりと、人並みに楽しい事ももちろん

あるのですが、それらとは異質な喜びですね。(うっかりす

ると、「危ない人」になりかねませんが)
 

 “人の世の中” で場違いな私は、“人の世の外” では、しっ

りくる私です。そこには、”人の世” には無い幸福がありま

す。出来るだけそこに居たいのですが、最大の障害はやはり

「お金」ですね。衣・食・住と税金ですね。困ったもんで

す。

 じゃぁ、親が財産をいっぱい残してくれていたら?

 そういう生い立ちだと、こんな人間には成っていないでし

ょうね。たぶん、どっぷりと世の中にハマっていることでし

ょう。

 結局、《世の中に居ながら、世の中の外に身を置く》とい

う離れ業を探ることになります。

 「そんな事出来るんでしょうか?」

 やってみるしかないんですね。

 それが、自分という人間の在り方みたいですから。


 あの時、一人の女子高生が言った何でもない一言が、私の

人生を決定付けました。けれど、あの一言に出会わなかった

としても、別の何かが私に同じ思いを抱かせた事でしょう。

私の内的状態が、その意味を探していたでしょうから。

 わたしたちは結局、自分から逃れることは出来ません。

 《 どんな自分であっても、自分を生きるしかない 》

 それを幸福と考えるか、不幸と考えるかですが、どうせ自

分からは逃れられないんですから、幸福であるべきでしょ

う。





 最近、BUMP OF CHICKEN の「Butterfly」を聴いてい

たら、 “生まれ変わったって 結局は自分の生まれ変わり”

という歌詞がありました。さすが! Fujiくんは天才です!





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