2017年6月30日金曜日

みんなちがって みんないい ?

 「みんなちがって みんないい」というのは、金子みすず

さんの有名な詩の一節ですよね。

 ひとつひとつの命が、比較を越えたところにある、絶対の

存在だということで、私もそれに対して異論はありません。

まど・みちおさんの詩も、同じ様な思いが貫かれています。

 ですが、ほんとに「みんなちがって みんないい」のか?

 この言葉を初めて聞いた時から、ほんのわずかな違和感が

どうしてもぬぐえずに来ました。今日は、それを考えてみよ

うと思います。


 私が引っかかってしまうのは、「みんないい」という部分

です。

 “存在” として「みんなちがって みんないい」は、OKな

んです。しかし、人間として「みんな」に対した時に、果た

して「みんないい」という思いに落ち着けるのか?


 人間の中には、冷酷な者や狡猾な者や、邪悪としか呼べな

い様な者が実際にいます。そのような者に、自分の尊厳を損

なわれる立場に陥ってしまった時、「みんないい」という自

分を持ち続けられるのか?

 人間以外でも、怖い病気を運ぶ生き物や、危険な生き物に

対して、「みんないい」と肯定できるのか?

 そこのところの消息を明らかにしなければ、「みんなちが

って みんないい」と、私は言う事ができない。


 蚊が飛んできたら、「ぱちん!」と叩き潰してしまいま

す。
 
 育てている野菜を食い荒らす虫を見つけたら、つまみ獲っ

て殺してしまいます。

 さらに極端な話、もしも、私が誰かに殺されそうになった

としたら?

 もしも、私の家族が誰かに殺されそうになったとしたら?

 「みんないい」などと思っている場合じゃない。

 自分や家族を守る為に、相手を殺すしか手段がないのな

ら、私は殺すでしょう。


 私は〈暴力〉を否定します。

 自分が〈暴力〉を振るうこと、自分に〈暴力〉が振るわれ

ることを否定します。

 それが、「肉体的な」暴力でも、「精神的な」暴力であっ

ても同じです。〈暴力〉は阻止します。その為の方法が、相

手を殺すしか残っていないのなら、相手を殺します。それ

は、〈暴力〉を阻止する手段であって、〈暴力〉では無いと

思うからです・・。本当にそれしか残っていないのであれ

ば・・・。


 その時、私が否定するのは〈暴力〉です。

 私を殺そうとする「相手」ではありません。〈暴力〉という

「行為」です。

 〈暴力〉という「行為」を、阻止しょうとした結果、相手

が死ぬことになるというだけです。相手を否定したわけでは

ありません。相手に〈暴力〉を振るうわけではありません。

 詭弁でしょうか?
 

 しかし、この様に考えれば、例え自分の尊厳が損なわれよ

うとする時にも、「みんないい」が可能です。

 否定されるのは、「行為」か「その行為を生む思考」であ

って、その「存在自体」ではないからです。
 

 「罪を憎んで、人を憎まず」と言いますね。

 「罪を犯させないために、罪を償わせるために、相手を殺

すしかない」。でも、相手の「存在自体」は憎まない。否定

ない。それは、可能だと思います。(私が実際にそう出来

かどうかは、別にして・・)


 「罪を憎んで、人を憎まず」というのは、「なんでもかん

でも人を許せ。無罪放免にしろ」ということでは無いですよ

ね。「罪」は「罪」ですから。(単純に「法律上の罪」とい

う事ではないですよ)

 「罪を償わせる」為には、その「罪」を犯した「存在自

体」に働きかけざるを得ません。

 その「存在自体」は許せても、そうするしかありません。

その為、見かけ上は「人を罰する」「人の行為を制限する」

ことになります。でも、その「存在自体」は許します。

 『みんないい』です。


 なぜ、罪を犯しても「存在自体」は許すのか?「いい」の

か?

 《 誰も、罪を犯すつもりで

           生まれて来るわけじゃない 》

と思うからです。


 「よーし!今度生まれたら、空き巣に入って、金や宝石を

盗みまくるぞー!」とか、「生まれたら、テロリストか連続

殺人犯になって、何十人も殺すぞ!」とか思って生まれて来

る人はいません。いると思いますか? そんな運命を望む人

間がいると思いますか? いるはずありませんよ。 


 生まれて来てみたら、自分の持って生まれた資質と、自分

を取り巻く状況によって、止むに止まれず罪を犯してしまう

のです。罪を犯したら、償うしか仕方がありませんが、「存

在自体」に罪は無いのです。罪を犯さない様にすることは出

来ないのです。


 親鸞聖人が、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人を

や」と説いたのは、「“罪を犯す定めに生まれた人間の(魂

の)苦しみ” を阿弥陀仏が知らぬわけがない。だから、悪人

こそ救うのだ」と確信していたからでしょう。

 「みんなちがって、みんないい」

 親鸞聖人もそう言うでしょう。


 金子みすずさんのピュアな言葉や、まど・みちおさんのあ

たたかいマナザシから始まった話が、とんでもなく重たい話

になってしまいました。でもこれで、私も「みんなちがって

みんないい」と言う事が出来ます。でも、厳密には少し表現

を変えたいのです。

 「みんなちがって みんな・そのものはいい」

 これじゃぁ、詩にはなりませんけどね。


 《 人も、どんな生き物も、木も、草も、石ころも、

   雨粒も、なにもかも、みんなそれぞれ、そこに、

   そのままに、ある。

   ただ、それらの〈動き〉だけが、人をして

   苦悩させ、歓喜させ、狂気させ、嫌悪させ・・・

   絶望させる・・・。

   それは、人が離れるべきものであると同時に、

   静かに抱き締められることを待っているのだろう 》


 苦も、楽も、怒りも、喜びも、悲しみも、恐れも、「自

分」という “あるがまま” の中に、抱き止めて、溶かし去っ

てしまえたら・・・・。

 (最後は、けっこう “詩” になっちゃいましたね)




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