2023年9月3日日曜日

台本には無い「しあわせ」



 《 人は、演じるために生れて来るのではない 》

 三年前にそう書いた(『さしあたり、今日も生きてみる』

2020/6)。なぜそう書いたのかといえば、誰もが演じてい

て、演じることが生きることのように信じ込んでいるから。

そして、誰もがそれに気付いていないし、そのせいで苦しん

でいるから。なので、そんなことを言ってみたくなる。


 毎週日曜日は E テレの『日曜美術館』を観るのだけど、そ

の前に『No Art No Life 』という5分間のミニ番組があっ

て、それも観ている。

 毎週、知的障害や精神疾患を持った人が常識にとらわれな

い表現活動をしている様子を取り上げていて面白い。やはり

思考の制約が無い状態で感性が解放されると、その表現は他

の人の感性をダイレクトに刺激するのだとよくわかる。そこ

には演じない生(なま)の人間が垣間見える。

 ところが、今日の番組に出ていた女性には少し違った感じ

を受けた。知的障害のある30歳ぐらいの女性で、その表現

はとても面白くて魅力的だったのだが、気にかかったのはそ

の女性の振る舞いだった。私は、なぜだか、そこに演技を感

じたのだった。
 

 気に入らない事があると、アニメで描かれる子供のように

目元に手を水平にかざして「え~ん😢」と泣くしぐさをみせ

たり、歌が好きでいつも歌っているのだけど、その歌が上手

でしっかりしている。作品ができて、施設のスタッフにみせ

るときのしぐさも、どこか普通に型通りの感じがした。全体

的にその振る舞いが類型的で、この番組にいつも登場する人

たちとは何かが違った。そして思った。振る舞いが類型的な

のならば、それは演技ではないかと。


 私が想像するに、この女性はごく幼い時になんらかの事情

があって、自分の心を守る為に、世の中から逃げて自分に

閉じこもる必要があったのではないか? 知的障害があるので

はなくて、知的障害という自分を演じることで、世の中と距

離を取り、自分を守ったのではないか? そしてそのような自

分の在り方は、ごく幼い時に無意識に形作られたものなの

で、自分でも自分が演技していると気付いていないのだろう

と。

 知的障害ではなくて、「知的障害を演じる」という精神疾

患なのではなかろうかと思った。(あくまで私の勝手な見立

てですよ)


 別にその女性を批判しているのでもないし、「嘘をついて

いる」などと言っているのでもない。こういうケースもある

のだなと気になっただけ。その女性にはその在り方が自分の

ギリギリの生き方なのだろうから、それでいいのである。


 この女性の「演技」はかなりエキセントリックに見えるの

で、周りの人たちはそれを「演技」だなどと思ったことはな

いだろう。そもそも、人が日常的に「演技」をするものだと

いう認識を普通の人は持っていないし、「この女性には知的

障害がある」と思っているので、そのような人が「演じる」

という可能性を考えていないだろう。けれど、私の感性はそ

こに「演技」を見て取ったのだった。


 この女性の「演技」は社会から逃れるためのものなので、

社会生活上の大きな問題を孕み、大きな困難を抱えることに

なる。けれど、社会に生きる苦しさからは逃れられるので、

その面では幸福だろう。

 一方、普通の人たちの「演技」は社会に合わせるための

「演技」なので、社会に適応して生きることを容易にする。

反面、社会の縛りに苦しむことになるのは避けられない。

 どちらも良し悪しで、「演じる」かぎり、生きることの本

質は見失われてしまうことになる。生きることは「演技」で

はないから。


 「社会に没入する」という社会との関わり方でも、「社会

から距離をおく」という社会との関わり方でも、社会と関わ

る以上わたしたちは「演技」をすることになる。

 社会に生きる以上、それは仕方がないことだけれど、それ

は決して人をしあわせにしない。「演技」の中にしあわせが

あるはずがない。そこにしあわせを見たとしても、それは 

“「演技」のしあわせ” なのだから。


 社会と関わらない意識の時。

 わたしたちが「演技」をやめることができるひと時。

 わたしたちは、生きていることの本質を垣間見る。


 《 人は、演じる為に生まれてくるのではない 》


 誰もそうとは気付かずに、演じ続けてその生涯を終えるけ

れど・・・。




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