2023年9月23日土曜日

生きてるんだから



 前回の話は、あとで少し言葉足らずだったように感じたの

で、しっくりするように話を足したいと思う。


 書いたことは「あなたは生きなくていいのです、なぜなら

いま生きているのだから」ということだったんですが、これ

は随分前に書いた『浮いて 待て』(2017/2)と同じ主題だ

なと気がついた。


 人のからだは水より比重が軽いから、仰向けで力を抜いて

じっとしてれば浮いていられるので「浮いて待て」と、小学

校などで教えている。要するに「浮くんだから、浮こうとし

ない方が良い。浮こうとしてジタバタすると、かえって溺れ

てしまう」ということ。

 それと同じように「生きているんだから、生きようとしな

い方が良い。生きようとジタバタすると、かえって生きられ

なくなる」と、前回の私は言いたかったらしい。


 わたしたちは世の中で生きている。世の中との関わり方は

人それぞれで、ど真ん中で生きていたり端っこでちまちま過

ごしていたりする。

 世の中を海に例えると、腰ぐらいの浅瀬に立っていたり、

ようやく顔が出るぐらいの深さだったり、中には立ち泳ぎを

し続けている者もいたりするのだろうけど、そこには流れが

あり、波もあるので、いままで足が届いていたのに届かなく

なったり、「立ち泳ぎも、もう限界だ・・」と思っていた

ら、浅瀬にたどり着いていたということもある。強い流れや

ひどい波に翻弄されることもあるだろう。

 世の中という海が凪ぐことはなさそうだし、深さが一律に

なることもないだろう。いつ自分が溺れそうになるかわから

ない。いま溺れそうな者も沢山いる。

 溺れそうでも、そうでなくても、力を抜けば浮いていられ

るのだから、ジタバタと動くのは疲れるだけだろう。


 とりあえず、いま生きている。

 明日も生きている保証はないけれど、いまは生きている。

 「生きている」ことに目的があるとすれば、それは「生き

ていること」だろう。生きようとすることは、かえって「生

きていること」を損ねてしまう。


 世の中の流れや波の中にいると、「このままだと死んでし

まうんじゃないか・・・」と怖くなる。意識が世の中と未来

に捕らわれて、いま生きていることを忘れてしまう。そして

「生きよう」とあがき、往々にしてそれは悪あがきになっ

て、本当に溺れ始める・・・。


 生きようとしなくていい。生きているのだから。

 わたしたちは自分の意志と力で生きているのではないのだ

から(自分の力で生きられるのなら、「人は必ず死ぬ」とい

うことはおかしいことになる)。

 わたしたちは生きさせられている。生きている。

 ただただ「生きている」を受け取ってゆけばいい。


 わたしたちが「生きよう」とするのは、「自分で生きてい

る」と思いたいから。「自分で生きている」つもりになりた

いから。エゴが「自分が人生の支配者で、自分が人生をコン

トロールするのだ」と思っているから。けれど、それは現実

に即してはいない。

 生命はエゴがコントロールするには複雑すぎるし、「生き

ていること」はエゴにとってシンプル過ぎる。エゴは「特

別」でありたがるから。


 いまエゴが活動できるということは、いま生きているから

こそで、それはエゴが「生きていること」そのものには関与

してないということを表しているし、エゴが生命にとって不

可欠のものではないということでもある。なので、エゴはシ

ンプルに「生きている」という事実が嫌いだ。それではエゴ

の出番が無い。

 それ故、エゴは「自分の力で生きている」と思いたいが為

に、不要なことを重要なことであるかのように振舞って余計

なことをする。そして自ら問題を抱え込む。それだけではな

く他人まで巻き込んで、世の中にメンドウを増やす。


 エゴは生きようとしてくれなくていい。

 存在しているのだから生きてもいいけど、身の程をわきま

えておとなしくして欲しい。

 わたしたちが「生きている」を味わうために。



 

0 件のコメント:

コメントを投稿