2019年6月2日日曜日

正しくなければいけないのでしょうか?



 前回は、かなり非常識な事を書いてしまったなと思ってい

る。血も涙もない人間だと思われかねない内容だ。これが人

気ブログだったりしたら間違いなく炎上してるだろうと思う

けれど、幸いにもこのブログはインターネットの辺境にあ

る。どこかの田舎の村立図書館の棚の隅にある郷土史さなが

らに、人の目に触れない(なんか悲しくなってきた・・)。

 だからといって、好き勝手に酷いことを書いてもいいと思

っているわけではないし、酷いことを書いたとも思っていな

い。その逆に、今の時代、人は好き勝手が過ぎるということ

を書いているつもりです。思い通りにしたがり過ぎる。そし

てそれ故に苦しむと・・・。


 でも、誰かを悪者にして非難したい人や、人の揚げ足を取

って面白がりたい人は、進んで曲解・誤解してくれるでしょ

うがね。そういう輩には構ってられません。


 芸能人や、いろんな有名人にとどまらず、一般人までがネ

ット上に揚げたコメントの内容を非難され、毎日あちこちで

炎上する。


 「おまえは間違ってる!」

 「何考えてんだ? バカだろ?」

 「なんも知らねーんだな。黙ってろ!」


 しかし、官僚の答弁や、役所の説明や、仕事の内容の報告

でもないのに、なぜ正しくなければいけないのか? 個人が

自分の考えを述べているだけなのだ、「そう考える人間もい

るのだな」ということで片づけられることではないか。それ

をいちいちあげつらって攻撃しなければ気が済まないという

のは、自分の側に何か欠損しているものがあるのだと考える

べきだろう。他人の頭の中より、自分の頭の中のことを考え

た方がいいと思うが、自分の頭の中のことを考えたくないか

らこそ、他人の頭の中を問題にするのだろうな。パチンコし

てたら気がかりな事を考えずに済むのと同じようなものだろ

う。自分というものの妥当性は考えたくないのだ。



 自分は安全な場所にいて、誰からの非難も受けないであろ

う公式見解や常識を振り回して人を鞭打つのだが、その公式

見解や常識で動いている世の中は問題だらけ。そんな世の中

の公式見解や常識は、検証してみるべきじゃないのか?


 非常識な発言の中には、耳を傾けて、自身を問い直してみ

る手掛かりになるものも多いだろうと思うが。


 そもそも、事務的なことでもなければ、誰も「正しいこ

と」など言えはしない。そんなもの無いのだから。

 “そもそも無いもの” を提示することは誰にも出来ないの

だから、誰でもが、誰にでも「おまえは正しくない」と言う

ことは可能だ。その為のどんな理由でも付けられる。


 《理屈と膏薬は何処にでも付く》(好きな言葉です💛)


 〈「理屈」は、「正しさ」の為に有るのではなくて、“自

分” の為に有る〉ということは、気付いてはいけないことに

なっている。


 誰かが間違っているのでもなく、おかしいのでもなく、悪

いのでもなく、ただ「自分の気に入らない」だけでしょう。

 「気に入らない」では、ワガママのように聞こえそうなの

で、「正しさ」を持ち出して、自分を正当化する。自分が

しくありたい。


 誰も彼も、自分が正しいことを確認したくて必死です。そ

の為に人殺しや戦争までする。「正しい」なんて、無いのに

ね。


 「正しいこと」など存在しない。

 もし「正しいこと」が存在するとしたら・・、あえて「正

しいこと」設定するとしたら・・。

 《仲良くすること》でしかないんじゃないだろうか?

 人と、世界と、自分自身と・・・。


 仲良く出来ないのかなぁ。




0 件のコメント:

コメントを投稿