2019年5月31日金曜日

「子供を守れ!」・・・まぁ、気持ちは分るけどね・・。



 また酷い事件が起きて、子供が殺されてしまった。川崎の

無差別殺人の事ですけどね。

 「どうやって子供を守ってゆけばいいか?」

 マスコミがお決まりのセリフを繰り返し、〈意識の高い善

の人〉を気取る。

 「じゃぁ、具体的で現実的なアイデアを出してみろよ。あ

んたらは話題を追いかけているだけだろうが」と私はつい毒

づいてしまう(中には本気で問題意識を持っている業界人も

いるだろうが・・・)。守りようがないでしょ。何をどうし

たいの?

 そういえば安倍総理も何かコメントしてたなあ。軽いのか

ウケ狙いかしらないけど、深く考えもせずにわけのわからな

い通達なんか出されたりしたら、実務屋さんがいらない苦労

をする羽目になるだろうに。
 

 少子化とはいえ、この国では一年に約百万人の子供が生ま

れる。小学生までの子供は千二百万人いる計算だ。「その千

二百万人の一人も事故や事件で死なせないぞ!」という発想

はマトモなのか?


 もちろんそのひとりひとり、ひとつひとつの家族にとっ

て、子供が死ぬことはとてつもなく重大な事です。当事者に

とってはあってはならないことなのは言うまでもない。けれ

ど、現実的に考えて、その千二百万人の内のある程度の人数

の子供たちが、事故や事件に巻き込まれて死んでしまう事は

避けられないでしょう。リスクゼロの世界は存在しないです

よ。

 逆に、リスクをゼロにしょうという社会の意識が極端な管

理主義を生み出して、その圧迫が人を窒息させ、かえって今

回の事件を起こしたような人間を生んでいる可能性は高いん

じゃないだろうかと思うんです。

 エントロピーの法則によって、秩序が生まれれば見えない

所で無秩序が生まれてしまうから、あるところでリスクが減

れば、別の所に別の形でリスクが増える。


 社会は管理が進み、より秩序化されるが、その分、個人の

精神に無秩序が溜め込まれてしまう。その無秩序がある人間

の中で限界を越えると、自殺や殺人という形で、無秩序が社

会の中に具体化してしまうのだろうと思う(イジメやパワハ

ラやクレーマーなんかもそうだろう)。鬱病やパニック障害

などの精神疾患がとても増えているのも、“社会のリスクを

ゼロにして、より効率的な暮らしを実現しよう” という管理

化の影響なんだろうと、私は思っている。


 社会が秩序を求めるのは仕方がないだろうけれど、そもそ

もこの世界は無目的で、自然法則以外は無秩序なのです。人

にとって理不尽で非情な事は起り続けるのです。


 どんなに「安心・安全」を望んでも、「不安」と「危険」

は裏口から入って来る・・。だったら、ある程度の理不尽さ

を受け入れることの方がいいのではないだろうか? だって

「不安」と「危険」は、裏口ではなく玄関から来てもらった

方が受け止めやすいだろうから。

 今回の事件や、この前の交通事故のようなものは、「災

害」の一種だと見ておいた方が良いだろうと思う(もちろん

法律上は別ですがね)。「管理がどうだこうだ」という種類

のものではないでしょう。


 巻き込まれた子供たちも大人も、本当に気の毒です。その

ひとりひとりにとっての事の重大さは、ひとりひとりそれぞ

れに絶対の重さです。それに対して、言えることは何もな

い・・・。

 けれど、人は誰もその一生の内で、数知れない様々な不運

に出会いながら生きて行かざるを得ない。時にはその不運が

その人の人生を終わらせるけれど、この世界の中では、それ

すら特別な事ではないのです。(江戸時代には、十五歳まで

生きられる子は半分ぐらいだったそうです)


 どんなに非情で理不尽に思えても、そもそもこの世界は自

分の都合に合わせて出来ているわけではない。

 冷酷だと思われるかもしれませんが、それが事実なのは誰

でも分かっているはずの事です。でも、アタマがそれを認め

たくない・・・。


 「他人事だから、そんなことが言える」なんて思わないで

下さいね。私だって死にたくなるような理不尽な事にいろい

ろと出会って来たのです。死にかけた事も何度かあったので

す。泣き泣き生きて来た日数の方が多いかもしれない。「そ

れを乗り越えて生きて来た・・・」のではなくて、たまたま

今も生きていられているだけのことなんです。だから、たま

たま今生きている人に言いたいんです。

 「今、自分が生きているのも、たまたま。今日死んじゃっ

た人も、たまたまですよ」と。


 理不尽な事が起ると、人はすぐに「何故だ!」と不安や怒

りに囚われるけれど、「何故」なんて言っても、理由なんか

無い。

 人が生きている事にも、死ぬ事にも理由は無い。

 非情な出来事に出合って、泣くのなら、泣くのです。泣く

しかなければ泣き続けるのです。

 この世界は、自分の都合に合わせて出来ているわけではな

い。でも、世界の都合  といっても無秩序ですが  に自

分が合わせることは出来る。

 どんなに理不尽に思えても、その出来事に寄り添いながら

生きて行くしかない・・・。


 「気に入らない事は無くそう!」

 ・・・なんて、まぁ、気持ちは分るけどね。

 無くならないんですよ。イヤな事も、イヤな奴も。

 不運はいくらでもやって来る(程度の差はあるけれど)。

生きて行くなら、その自分の人生に寄り添って、慈しんでゆ

くしかないでしょう。


 それぞれの人に起るそれぞれの理不尽な出来事は、個人の

事ですよ。その人が受け止めて、その人の中で消化(できれ

ば “昇華”)してゆくことですよ。まわりが、ましてやどこ

かの誰かや社会が口はばったい事を言うのは、ちょっと違う

と思うね・・・。語るに落ちるか・・・。


 「子供がいくら死んでもいい」なんて思ってるんじゃない

ですよ。私も普通に情の有る人間です。そんなことは無いほ

うが良いに決まってる。けれど、そんなことが起るのが、起

き続けるのがこの世界です。それどころか、子供を殺す人間

は見ず知らずの者ではなくて、その子の親だということの方

がはるかに多い・・・。親から子供を引き離すのが子供を守

る一番良い方法だなんて・・・、そんなことできますか?

 子供を殺すところまでいかなくても、子供の人格を否定し

て、自分のエゴの為に子供を利用する “毒親” はいくらでも

いる。そういう人間を管理して、子供を守るなんていって

も、具体的にどうするんですか? どうしようもないんじゃ

ないですか・・・?


 「子供を守れ!」なんて言って、管理することばかり考え

て、それで子供が生き易い世の中になるのか? 私は「違う

だろうな・・」と思う。

 管理することで犯罪や事故から子供を守れたとしても、そ

の管理社会の息苦しさ(生き苦しさ)は、子供を引きこもり

や不登校や自殺やイジメに追い込んで行っているのが、今の

日本でしょう。

 効率と秩序にがんじがらめにされて、子供たちももういっ

ぱいいっぱいなんだろう。だからちょっとしたストレスで心

が折れてしまう。キレてしまう・・。ホント、可哀相です

よ。


 「子供を守ろう!」という言葉の裏には、「子供に、(大

人の)思い通りに生きて欲しい」というエゴが隠されていた

りはしないか? 本当に子供のことを考えているのか?

 「子供の為」と言いながら、その実、心を取りこぼされた

子供たちが大人になって、自身を見失ったまま苦しんでいる

のではないか? 上手く生きている様に見える大人であって

も、心が無いからこそ、社会で上手くやっていけているので

はないのか?   「勝ち組」に成る為には、弱い者の痛み

に鈍感である必要がありますからね。


 この世界は人間の思い通りに行かない。

 自分の思い通りならない。

 それどころか、起きて欲しくない事が起きてしまう。死に

たくなくても、人は死ぬ時が来る。


 「子供を死なせないぞ!」

 「若者を死なせないぞ!」

 「働き盛りの人間を死なせないぞ!」

 「お年寄りを死なせないぞ!」


 いったい、いつ死ぬんだ?

 どんなに嫌でも、人は死ぬんですよ。それは「事実」です

よ。

 生きている限り、自分と、自分の大切な者の死は避けられ

ない。時にはあまりにもむごい形でそれは起きる・・・。で

も、それが「生きている」ということの一つの必然です。

 少なくとも、意識の上だけでも、それを自分の事として受

け入れる「覚悟」を持っていなければ、わたしたちは “何

か” を、誤る・・・。


 それを認める。それをある程度受け入れる。すべてを自分

の思い通りにしようとしない。コントロールし過ぎない。そ

うしなければ、「生きている」のではなく、ただ「死んでい

ない」だけの生になるんじゃないだろうか。


 改めて言っておきますが、私は「子供が死んでもどうでも

いい」「人が死んでもどうでもいい」と言っているんじゃな

いですよ。

 「事実」を、「避けられないこと」が在ることを認めない

ことが、かえって人を苦しめているだろうと思っているので

す。


 「事実」の非情さに打ちひしがれて、心は砕けて、慟哭の

中に閉じ込められて、もしかするとそのまま死んでしまうか

もしれない・・・。それもまた、「生きる」ということでし

ょう。それならそれでいいのだとも思う。
 

 「事実」を受け入れることを拒んで、自分の望み  望ん

でいたこと  に捕らわれすぎると、わたしたちは生き損ね

るだろうと思うのです。

 「しあわせ」は、自分の望み通りになることにあるのでは

なくて、出来事を静かに受け入れ、寄り添って行くことにあ

るのだと思うのです。泣きながら・・・、苦しみながらでも

ね・・・。


 世界は自分の為には動いてくれませんが、世界は自分の為

に用意されている。

 それが、自分の為だとは思い辛いですけどね・・・。




 

 

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