2019年5月27日月曜日

しあわせでいたくはないのだろうか?



 この世に生まれて来た限りは、しあわせでいたくはないの

だろうか?

 誰だってそうだろうとは思うのだけれど、意外とみんな、

そうではなさそうだ。だって、しあわせでいようとしている

ようには見えない人がほとんどだと思えるから。

 自分の身のまわりで起ることを見ても、ニュースなんかを

見ても、自分で自分を不幸にしているような事ばかり。それ

がそれぞれの必然だからしようがないのだけれど・・・。


 私は、「しあわせ」=「機嫌が良い事」と考えているので

すが、世の中を見ていると、誰もが、自ら進んで不機嫌にな

ろうとしているとしか思えないのです。「不機嫌」になるこ

とに喜びを感じているように見える。「喜び」というより

は、ある種の「快感」・「興奮」を求めて「不機嫌」を選択

している様です。


 人々が求めているのは「しあわせ」ではなくて、「刺激」

ですね。

 さまざまな “依存症” が存在することを考えても、人とい

うものは、「刺激」を欲し、「刺激」に陶酔し、「刺激」に

溺れ、「刺激」に囚われてゆくものです。

 「陶酔」を「しあわせ」だと思っているようですが、「陶

酔」は「陶酔」でしかありません。酔っぱらっているだけで

す。素面(しらふ)じゃない。


 仕事や金儲けに陶酔し、恋愛に陶酔し、スポーツやギャン

ブルや様々な娯楽に陶酔し、薬物に陶酔し、思想や宗教に陶

酔する・・・。みんな、なにがしかに陶酔して、それを「し

あわせ」だと思っている。実のところ、“脳内麻薬” で「ハ

イ」になってるだけでしょうが・・・。


 そういったものが本当に「しあわせ」なのなら、世の中は

もう少し平和で、人はもう少し落ち着いているだろうと思う

のですが、それでは済まない。実際、済んでいない。


 仕事・金儲け・恋愛・スポーツ・ギャンブル・薬物・思

想・宗教・・・。そういったものに人が喜びを覚えるのは確

かですが、それらに関わる事で、その喜び以上に苦しんでい

るのが正直なところでしょう。

 百の苦しみの後の一つの喜び(興奮)に対して、百の苦し

みの分の思い入れを注ぎ込んで、その喜びが「価値あるもの

だ」と信じ込む・・・。

 それはまるで、自ら洞窟にもぐり込んで彷徨った挙句に、

一すじの光を見つけて歓喜しているようなものですが、世の

中で「しあわせ」といわれることは、たいていそんなことで

す。

 逆パターンもありますね。洞窟の奥ばかりに目を向けて、

背後から射している光を見ずに「暗い・暗い・・」と嘆いて

いるような・・・。どちらにせよ、人は暗がりに入りたがり

ます。基本的に、わたしたちはマゾのようです。


 《しあわせになるのに理由は要らない》

 わたしたちは、放っておいたら「しあわせ」なのです。

 余計な事をするから  考えるから  苦しむのです。


 生きるということは・・・、この世界は・・・、光に包ま

れているようなものです。

 余計な事をするから本来は無いはずの “闇” を見てしま

う。

 自分で “闇” を設定して、その “闇” に目を向け、「暗

い、怖い」と苦しむ・・・。なんだって人間はこんなにも 

“ご苦労さん” な存在なのでしょう? (ホント、何とかして

欲しい。神様仏様・・・)

 なぜ、人は暗がりに入りたがるのでしょう?


 別に暗がりに入りたいのではありませんね。人は、人であ

る限り、暗がりに入ってしまわざるを得ません。

 人は、思考した瞬間、アタマを使った瞬間に “闇” に入っ

てしまいます。「思考」は “闇” です。仏教では〈無明〉と

言いますね。〈分別智〉とも言います。


 考える事はある視点を持つ事ですから、視野が狭くなりま

す。

 視野が狭くなれば、当然ながら目に入る光の量は減ります

から暗くなるのです。

 そうやって考えれば考えるほど、考えが固定するほど、世

界は暗くなってゆくのです。

 「思考」は “闇” です。


 それとは逆に、考えなければ “闇” は生まれません。「思

考」を用いずに世界を捉えれば “闇” は生まれません。〈無

分別智〉というものですね。

 その結果見える世界を〈光明〉と呼ぶわけです。“闇” が

消えるわけですね。


 なにやら胡散臭い話をしているようですが、わたしたちが

考えることを止めたとしても、世界が消えて無くなるわけで

はありませんよね。「ボーッ」としてたって、寝ていたっ

て、世界は存在している。

 だったら当然、「思考」を用いずに世界を捉える可能性は

あるわけです。そして、そこにこそ「しあわせ」があると私

は確信しているわけです。自分の経験上・・・。


 人は誰しも、しあわせでいたいはずです。

 そうでなければ、人として生まれて、意識というものを持

っている甲斐がありません。

 世の中で「しあわせ」とされるものが、たいしたものでは

なさそうなのは、もう明らかではありませんか? 

 歴史を振り返っても、現在の世界を見渡してみても、もう

「しあわせ」の “お里は知れている” ・・・。


 “お里” はエゴです。わたしたちのアタマです。

 区別し、比較するクセ(業)を持ってしまったアタマが、

「生と死」「善と悪」「幸・不幸」を生み出し、その為に不

安に苛まれて、苦しまぎれに「思考」の中に設定したもの

が、世の中の「しあわせ」です。それは、質の悪い代替品で

す(“品” という言葉は、本来「品(ぼん)」という仏教用

語で、【救われかたの度合い】を表わすものです)。


 みんな本当の〈しあわせ〉を知らないのです。

 しあわせでいたくはないのだろうか? もう、そろそろ。




 

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