2019年5月13日月曜日

悪口が悪者を作る



 わたしたちは悪口を言う。ほとんど毎日言う。日に何回も

言う。わたしたちは悪口を言うのが大好きだ。

 「人は共通の敵を持つことで、強い一体感を持つ」と、社

会心理学か何かの研究にあるそうで、いろんな国や民族など

の集団が、ある敵を設定することで団結を図ろうとするのは

昔から広く行われている。


 わたしたちが悪口を言うのは、「悪い事」に対してではな

くて、ほとんど「悪い奴」に対してだと考えていい。けれど

も、わたしたちが悪口を言うのは、「悪い奴がいるから」と

いうわけではない。自分に都合が悪い事をする人間の悪口を

言うことが、「悪者」を作るのです。そもそも「悪者」がい

るわけじゃない。


 人は「悪者」を設定することの反作用を利用して、「自分

は悪くない」という立場に立ち、自分の正当性や安定を保と

うとする。

 「悪い事」という一過性のものよりも、「悪者」という具

体的なものの方が扱いやすいので、「悪者」の需要は高い。

そして「悪者」を設定する為には、“悪口を言う” という作

業が不可欠なので、わたしたちはしょっちゅう悪口を言わな

ければならないことになる。


 悪口を言えば言うほど、自分の安定性が高まるので、悪口

を言うのはとっても楽しい。みんな悪口を言うのが大好き。

悪口を言っている間は無条件に自分を肯定できる。悪口を言

っている間は・・・・。

 ところが悪口を言い終わった時には、その結果として「悪

者」が生まれている。あるいは、以前から存在していた「悪

者」の “悪さ” が増している。それは自分の世界の中に、固

定化された「悪」が増える事を意味する。ひと時の自己正当

化とその快感が、自分の世界に、自分が排除したいものを増

やしている事を多くの人は気付かない。


 悪口は、自分が否定したいものを否定する為に言われるも

のだけれど、否定すればするほど、それは自分の中で存在感

を増して行く。どんどんと “見過ごせない現実” になってゆ

く。かくて、その人の中で「悪者」は実体化し、「悪者」と

の闘いが始まる。どうも、ごくろうさん。



 本当は、「悪者」なんていません。

 自分が悪口を言うことで「悪者」を生み出しているだけの

ことです。
 

 もちろん、自分にとって都合の “悪い” 事はあります。あ

りますが、それは “事” です。その “事” という抽象的なも

のに対して悪口を言おうとすると、それはすぐに、その 

“事” に関わる人にスライドしてしまいます。実態の無

いものに思考を固定する事は大変なので・・・。


 “思考”・ “観念” は、それを保持する為の「依り代」を必

要とします。その “思考” が自身の安定の為であれば、その

「依り代」はより具体的である方が良い。

 自分の都合の悪い事を否定して自身の安定を得る為には、

わたしたちには「悪者」が必要なのです。わたしたちは自分

の都合に合わせて「悪者」を作るのです  わたしたちと言

っても、わたしたちのアタマのことですけどね。


 そのように「悪者」を作る一方で、わたしたちは「味方」

を作ります。一緒に悪口を言ってくれる者が自動的に「味

方」になるんですね。

 でも「味方」という存在は、「一緒に悪口を言う」ことで

生まれるものです。なにやら胡散臭くありませんか? 「味

方」というものは、「悪者」の鏡像のようなものです。それ

は、いつ反転して「悪者」になるかわかったものではありま

せん。「味方」も、所詮自分ではありません。

 (話がちょっと飛びますが、その「味方」と「自分」の信

頼度を上げる為に、わたしたちは「思想」や「宗教の教義」

や「偶像」や「法律」を利用したりします。そういったもの

は、すでに多くの人に肯定されているものなので、都合の良

い “免罪符” になります。もちろん自分に都合の良いように

解釈した上でですけど。《悪魔でも、その目的の為に聖書を

引用する事ができる》のですから)


 「悪者」も「味方」も、どちらも自分の世界の自由度を損

なう存在です。「味方」を「味方」として維持するには、い

ろいろと配慮が必要になるでしょ? 面倒くさい存在なんで

すよ、「味方」も。

 そもそも、わたしたちの “思考”(アタマ)自体が不自由

だから、「悪者」と「味方」なんて面倒なものを作り出して

しまうんですよ。本当の「悪者」は外にいるのではなくて、

わたしたちの中にいる「アタマ」ですよ。

 何度でも言いますけどね。「アタマ」が悪いんです。自分

の「アタマ」がね。




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