2019年5月6日月曜日

HSP と云うのだそうだ



 最近、「HSP」という言葉を知った。

 “Highli Sensitive person” の略で、「敏感すぎる人」

ということらしい。

 ほんとうに最近になって一般社会に出て来た言葉のよう

で、まだほとんど認知されていないようだ。


 音や光、臭いや触覚など、さまざまな刺激に敏感で、人の

細かな表情や振る舞いなども敏感に感じ取って、ささいな変

化に気付いて対応できる一方、それゆえにストレスを溜めや

すく疲れてしまう人のことを指すらしい。


 その説明を見て、「ああ、自分の事だ」とすぐに思った。

 HSP かどうかを判断する目安として、四つの条件が挙げ

られていたが、全部自分にあてはまる。そのパーソナリティ

の例もいくつか挙げられていたけれど、心当たりのあること

ばかり。

 「自分は感受性が強すぎるようだ」とは以前から思ってい

たが、そんな自分のような人間のタイプを定義する言葉があ

るとは知らなかった。二十年程前にある研究者が提唱し始め

た事らしいが、そういう人が五人に一人ぐらいの割合でいる

そうだ。


 けれど、感受性の強い弱いにしろ、運動が得意かどうかに

しろ何にしろ、五人の人間を比較すれば、そこに五段階の強

弱が生まれるのは当然で、「低い・やや低い・標準・やや高

い・高い」ということになるしかない。

 「HSP は五人に一人」といっても、比較基準を細かくす

れば、「十人に一人」「五十人に一人」ということにもなる

だろう。いずれにせよ、このような “割合” というものは正

規分布の「ベルカーブ」を描くことになって、両方の極に当

たる人は、それ以外の人から理解されにくくて苦労する事に

なる。ということで、私も苦労して来た。

 苦労して来たおかげもあって、自分が敏感ゆえに不快に感

じる事を、まわりの人間が何も気にしていないことや、関わ

った人が “ザルのような感受性” の持ち主で、いらだってし

まう事なども、「持って生まれたものが違うのだから仕方が

ない」と考えられるようになった。《 誰にでも事情がある 

のだと。

 しかし、不運な事に、こちらは感受性が高いので《 誰に

でも事情がある 》ということに気付けるが、反対のタイプ

の人間はそんなこと感じはしない。そういう人間は「みんな

同じだろ!」と思っているので、こちらが一方的に配慮する

だけになってしまう。結局、疲れてしまうことになる。あ

あ・・・。


 ということで、「HSP」という言葉を生み出して、社会的

な理解を進めようというのは有り難いことだと思うのだけれ

ど、HSP 以外の人は HSP より他人を理解する為の感性レ

ベルが低いので、結局 HSP は、残念ながらあまり配慮して

もらえないだろうね。


 スズメを見てたって、ノラ猫を見てたって、金魚を見てた

って、それぞれの個体に感受性の差はあるし、それぞれにメ

リットとデメリットがある。

 どんな生き物にも敏感な個体と鈍感な個体が存在し、それ

は必要で必然でもあるのだろう。もしそこからさらに極端に

行き過ぎれば、そのような個体は不適応を起こして淘汰され

てしまう事になる。それは人間の社会性においても同じだろ

うね。


 反対のタイプからすれば、どちらからでも「よくあんなの

でやってられるなぁ」とか「頭に来るなぁ」とか思うだろう

けれど、それで生きていられるということは、その環境に生

きる人間として許容範囲内にあるということなのだ・・・。

とはいえ、さっき述べたように、気をつかうのは HSP の側

になるので、やっぱり割が悪いなぁ。


 こう書くと、鈍感な方が得なような感じがするけれど、こ

のブログで書いているような、「センシティブ」な世界の受

け止め方から生まれる喜びなどは、HSP でなければ得られ

にくいだろうから、私は HSP の側で良かったと思うね。

 「“思考” 以前に存在している世界とシンクロすることで

感じる、生きている事の幸福感」などというものは「LSP ( 

Low Sensitive person )」には、感じ様も無いだろうか

ら。(バカにしてるけど、どうせ LSP はこんなブログ観な

いから大丈夫)


 HSP はすぐに不安になったり、泣きたくなったり、自己

嫌悪したり、死にたくなったりするけれど、それを上手くや

り過ごせれば、敏感すぎるからこそのしあわせを得られる。

 世界の無限のディティールと、その背後の “透明な絶対

性” さえも感じ取ることができる。それは、人としての最高

の幸運ですよ。






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