2022年8月11日木曜日

一期一会



 鹿児島の小学校で、イチョウの老木の大きな枝が折れて落

ちて来て、草刈りをしていた校長先生が下敷きになり亡くな

るという事故があった。

 十数年前にも淡路島で、学校行事でそこに来ていた中学生

の上に、崖の上の松の木が折れて落ちて来て、やはり亡くな

ったという事があったと記憶している。

 どちらも大変不運なことで、家族は「なぜ・・」と思うば

かりだろう。


 次の瞬間、わたしたちの身の上に何が起こるか、誰も知ら

ない。


 二十年ほど前、仕事中に200Vに感電したことがある。両

手を電気が通り抜け、耳の中で「ブーン」と音がしていた。

機械の漏電が原因で、まったく予想外の事だった。

 あの時死んでいてもまったく不思議はなかったが、縁あっ

て今もこうして生きている。(たまたま、その翌日に電気保

安協会の人が来たので事情を話したら、「死ぬで!」と言わ

れた)

 そんな経験をした私が生きていて、今回の校長先生や淡路

島の中学生が無くなったことには、それぞれ個人の、生き方

だとか、徳だとかは何の関係も無い。さらに言えば、死んで

まったことが「悪いこと」で、死ななかったことが「良い

と」だとも、私には言えない。


 まったく予期しないことで命を失うことは不運だと思う。

気の毒に思う。無い方がいいと思う。けれど、起こってしま

ったことは戻せない。起こってしまうことを防げない。この

数時間以内に私が死ぬかもしれない。それがさだめなら、し

ようがない。わたしたちは自分の死に方を選べない。


 以前にNHKの番組で消防やレスキューの隊員にインタビュ

ーするものがあって、その中の一人が、「いつもは玄関で見

送ってくれる奥さんが、夫婦喧嘩をした翌日、送りに出て来

なかったことがあって、その時に “もしかしたら、出かけた

ら二度と返ってこないかもしれないような仕事なんだから、

腹が立っても見送りだけはしてくれ” と頼んだ」と言ってい

たのを憶えている。

 もしも、喧嘩して見送らず、本当に帰ってこなかったら、

奥さんは生涯自分を責めることになるのではないだろうか?


 一期一会である。

 人と人とだけではない、この世界と、瞬間ごとに一期一会

だ。


 いつ終わる人生なのか、誰も知らない。

 その時その時、すべての瞬間に誠心誠意だとか、ベストを

尽くすとかいう必要はないし、そんなことはできはしないけ

ど、その時その時、いまある世界を少し大切にするのなら

ば、次の瞬間命を終えても悔いは無いだろう。大切な人を無

くして、深い悲しみに打ちひしがれたとしても、そこには救

いがあるだろう。


 校長先生は一心に草刈りをしていたことだろう。

 淡路島の中学生は、友達と楽しんでいただろう。

 そうであったことを祈るが、そうでなかったとしても、一

つ一つの人生に価値の違いは無い。

 悔やんでも惜しんでも命は戻らない。そのような終わり方

をするさだめにあった、その人の人生を受け入れる。そうな

った時の自分の人生を受け入れる。

 一期一会。


 南無。




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