2017年9月16日土曜日

家(うち)へお帰り


 井上陽水のデビューアルバムである『断絶』の中に、「家

(うち)へお帰り」という曲があります。
 

  子供が道で泣いてる 叱られて

  汚した服は 涙で濡れている

  さあ 泣かないで 家へお帰り

  夕焼けに さよなら言って お帰り


  さあ 泣かないで 家へお帰り

  今日の日は すべてがこれで 終わった


 私の世代なら既視感を抱くような、優しく、ノスタルジッ

クな小品ですが、こんな光景はもう目にしませんね。

 夕暮れの道端や公園で子供がひとりで泣いてたら、「虐待

か!?」という見方をされそうです。

 「あぁ。昭和だったんだなぁ」

などと、感傷に耽ってみるのもいいのかも・・・。


 今は、なによりも「安心・安全」が第一。

 「子供が泣くようなことは、どんな些細なことであろう

と、あってはならない! たとえ親であろうと、子供を泣か

すなど許されることではない!」

 そんな “見えない横断幕” が、街の中に掲げられている様

な気がします。が、この件には深入りせずに先へ参ります。


 街の中で子供は泣いていませんが、家の中で子供は泣いて

いる様です。

 虐待の事だけを指して言っているのではありません。涙を

流さずに “泣いている” 子供たちが、結構いるのだろうと。

 当の本人さえ、自分が “泣いている” ことを気付かず、自

分が “悲しい” ことさえ分からず、心の置き場を失くして傷

付いている子供たちが大勢いるだろうと。

 「隠された悲しみ」を抱えた、「悲しむ事を許されない」

子供たちが、“大人” という〈社会〉からの圧力に胸を詰ま

らせていることだろう。


 考え過ぎかも知れません。

 でも、この頃、小学生がずいぶんとしっかりした、大人の

ような意見を言うのを耳にすることが多くて、何やら不穏な

ものを感じてしまう。


 「効果的な教育がなされて、子供が早く賢くなっていい

ね!」などとは、思わない。

 「そんなに早く大人になっちゃって、どうするの? いっ

たい、いつ、子供をヤルの?」という想いが湧いてきてしま

う。


 “生きられるはずだったであろう子供としての時間” は、

何処へ行った?

 “生まれ出るのを待っていたであろうナイーブな感覚とエ

ネルギー” はどうした?


 「子供らしさ」と言えば陳腐に過ぎるけれど、数万年もの

間、ほとんど変わらなかったであろう子供の在り方が、数十

年で急激に変わってしまうことは、人の成長に影響を与えず

に措かないだろう。


 子供の身体の成長にさまざまな栄養が必要な様に、子供の

心の成長には、理屈ではない体験や感動が必要だろう。ロジ

カルな栄養ばかりを詰め込んでいては、バランスのとれた奥

行きのある人間にはなれないだろうし、子供にある種の「飢

餓感」を持たせてしまうのではないだろうか。そしてその

「飢餓感」は、意識されない “悲しみ” と “怒り” となっ

て、心の中に根を張ってしまうだろうと思う。

 そしていつか、その「飢餓感」は外に向けられるだろう。

得られてしかるべきだったものを、得られなかった事の “復

讐” として。


 それが、どの様な形で現われるのかは知らない。

 ケースバイケースだろうし、周りの人間は、何故そんな事

が起ったのか理解出来ないだろう。そして本人にも理由は分

からない。「意識されない “悲しみ” と “怒り” 」が理由な

のだから。ただ、けっして喜ばしい事ではないことは、間違

いない。
 

 では、どうすべきか?
 

 そんな世の中にしちゃったんだから、今さらどうしようも

ない。

 ただ、「ぼくらはみんな “考え過ぎ” なんだよ」と言える

だけ。

 家(うち)へ帰らなくちゃいけないんでしょう。

 
 「アタマ」と遊び過ぎて、迷子になっちゃったんですよ。

人間は。家(うち)へ帰りましょう。子供になって。

 「家(うち)」は何処にあるのか?

 「家(うち)」って何なのか?
 

 私はこう考えています。


 《 わたしが、わたしのマイホーム 》

 どこに居たってね。


 「アタマ」から、「わたし」へ帰るのです。世の中に溜め

息が出る様な時には。

 「アタマ」に、「じゃぁね!」と手を振って、自分の中へ

帰って行く。そこには、どこよりも落ち着けて、安心でき

る、「わたし」という家がある。


  さぁ 泣かないで家へお帰り

  今日の日は すべてがこれで終わった


 じゃぁね。バイバイ。



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