2017年9月12日火曜日

エゴサイド・ライフサイド


 わたしたちは、いったい “何を” 生きようとしているの

か?


 「生きるのに “何を” もへったくれも無いだろう。人間と

して生きるんだよ」というのが、大方の考え方かなと思うん

ですが(そういうふうに決めつけておきます)、この「人間

として」が曲者ですねぇ。

 人間にもピンからキリまでありますからね。

 釈迦やキリストから、あなたや私。エジソンに徳川家康、

アイゼンハワーにヒトラーにプーチンにガンジー。

 「人間として」って、一言で済ませられることではなさそ

うです。

 どんな「人間として」生きるのか? 生きたいのか?


 釈迦やキリストのような “生” を望むのと、ヒトラーのよ

うな “生” を目指すのでは、まさしく「天国」と「地獄」の

違いです。

 こんな両極端なことではなくても、方針としてはどちら寄

りを望むのか?


 釈迦やキリストが生きたのは、“何を” ではなくて、“生” 

そのものでしょう。余計なものは “何” も無い。

 方や、ヒトラーが生きたのは “何” か?

 極限まで肥大した “エゴ” ですね。

 当時のドイツ国民のエゴを吸収し、そのエゴの波動をまた

民衆にフィードバックし、さらにエネルギーを増したエゴを

改めて取り込む・・・。そうして、巨大な “エゴ” として生

き、仕事を果たした。

 仕事とは? 

 “エゴ” の仕事は、他者を「否定すること」ですね。

 ですからヒトラーは「否定」しました。ドイツ人の総力を

結集して。


 「ヒトラーが生まれてドイツ人を扇動した」と見るのが、

まぁ当たり前の見方で、普通に歴史を捉えるにはそれでいい

と思うんですが、私は「ドイツ人がヒトラーを生んだ」と捉

えます。もっと言えば、「世界がヒトラーを生んだ」と思い

ます。


 当時のドイツの事はよく分かりませんが、そこには大きな

危機感と閉塞感があったと思われます。

 どんよりと不安と怒りがたちこめ、民衆の胸底には強い 

“怖れ” が拡がっていたことでしょう。そこに一人のチョビ

髭の小男が現れた。

 民衆たちに “怖れ” がなければ、「口だけは達者な、ちょ

っとアブナイ男」として見られて、それで終わりだったので

しょう。

 しかし、民衆は自分たちの “怖れ” に対抗するために、こ

の小男の「口の上手さ」に乗った

 自分達の “怖れ” を払拭するための「依り代」として、彼

らは自分達のエゴをヒトラーに集約した。「赤信号、みんな

で渡れば怖くない」。

 その後は、「敵を作って、それを否定することで自身の存

在意義を確認し、自己満足する」という、お決まりのコー

ス。興奮している間は、“怖れ” から目をそらしている事が

出来ます。


 と、ここまでは「ドイツ人がヒトラーを生んだ」というこ

とですが、そもそも「ドイツ人の中に拡がっていた “怖

れ”」はどこから来たのか?

 それはもちろん、彼らを取り巻く環境(状況)から来たの

です。

 国と国・民族間の軋轢、天候や病気などの自然から感じる

不安、経済問題・・・。

 ドイツ国内にとどまらず、国を越えて様々な圧力が加わ

り、それに感応して “怖れ” を増幅させる要素が、当時のド

イツ国民の中にあったのでしょう。

 「世界がヒトラーを生んだ」のです。すくなくともヨーロ

ッパが・・・。


 話が大きくなり過ぎましたが、ヒトラーの道は「エゴの

道」。“エゴサイド” です。

 方や、釈迦やキリストの道は「生の道」。“ライフサイド”

です。


 世の中はすべて “エゴサイド” です。そこに居ると、まか

り間違えばヒトラーのように「エゴの依り代」に祀り上げら

れて悲惨な人生を生きる事になる場合もあります。(祀り上

げた方も愚かですが)

 “エゴサイド” に居るのなら(普通に暮らすのなら)、自

分や他人のエゴにコントロールされてしまわない様に、十分

な注意をしなければなりません。

 「人間として ”自分”を 生きている」つもりが、「“エゴ” 

を生きているだけ」になりかねません。最悪、“その他大勢

のエゴ” に振り回されることになります。


 「人間として、より良く生きたい」のであれば、“ライフ

サイド” に寄って行くしかない。

 では “ライフサイド” は何処か?

 “ライフサイド” は個人の中にあります。心臓は自分の中

で動いているでしょ?


 母親のおなかの中で、一つの卵として始まったあなたは、

何度かの細胞分裂を繰り返した後、心臓を造り、トクトクと

全身に血液を送り始めます。なんだかんだといろんな事を考

えて、怖がったり、得意になったり、怒ったりする脳が出来

るのはずっと後です。ヒトの発生から見ても、心臓が先で

す。

 このドクドクと脈打つエネルギーと、それに動かされ、そ

れを支えている身体が 、”何を”生きようとしているのか?


 アタマは “後からやって来た" くせに出しゃばり過ぎてい

るのです。

 “後からやって来た” から、十分に準備され、練り上げら

れていたのなら良かったのでしょうが、残念ながらわたした

ちは、〈意識〉が未完成のまま生まれてしまいます。

 その上に、〈意識〉の不完全さ故に自意識というものが生

まれ、自意識は自分(自意識自身)を守る為に、〈意識〉が

完成することを怖れます。


 自意識が「〈意識〉の完成」を怖れるのは何故か?

 世界と〈意識〉が完全に対応しきれていない(折り合いを

つけられていない)不完全な部分に自意識が生まれるので、

〈意識〉が完成してしまうと自意識の居場所がなくなってし

まうのです。

 自意識、つまり “エゴ” は、自分が存在し続ける為に、自

分以外が「不完全」であることを求めます。“エゴ” の外に

あるものと折り合いをつけることを拒みます。

 「“エゴ” の外にあるもの」

 それは、“世界” と “自分の身体” です。

 “エゴ” は「自分が完全である」としたいので、“世界” と

“自分の身体” を「不完全」なものとしたがります。なの

で、「否定すること」が仕事になります。


 「世界は不完全だ!」と、自然にも社会にもケチをつけま

す。

 「この身体は不完全だ!」と、化粧したり、鍛えたり、整

形したり、タトゥーを刺れたり、医者にいじってもらった

り、勉強したりします。

 そうやって、必死で他者を否定し、自分の居場所を確保し

ようとします。

 何十億という人間が、自身を否定し、お互いを否定し合っ

ているのです。時折、ヒトラーの様な存在が生まれるのも不

思議ではありませんね。


 “エゴサイド” から完全に離れるのは、十分な条件をあた

えられた人でなければ出来ませんし、その様な人はごく稀に

しか現れません。

 だからといって、そんなバタバタと慌ただしく、苛立たし

い場所に、あまりどっぷりと浸かるものではないでしょう。

 なるだけ “ライフサイド” に寄って、〈自己〉に親しむ方

が、生きている甲斐があると思うんです。

 だって、“エゴ” は「社会」と〈意識〉の間に生まれるも

のですが、所属先は「社会」の方ですから、“エゴ” 主体に

生きると〈自己〉を生き損ねます。

 〈自己〉を生き損ねたら、「自分」に生まれた甲斐はない

ですよね。
 

 《 わたしたちは “何” を生きるか?

   わたしたちは〈自己〉を生きるのである 》





0 件のコメント:

コメントを投稿