2021年7月17日土曜日

彩雲に出会う



 今日、気象庁が近畿地方の梅雨明けを発表した。昨日まで

とは違う、格段にパワーアップした日差しの中、スーパーへ

買い物に出かけたのだが、汗をかきながら帰って来る途中、

私の労をねぎらうように、ご褒美があった。





 彩雲。

 瑞雲とも言い、良い事が起こる前ぶれとされる(厳密に言

えば、これは環水平アークと呼ばれるもので彩雲ではないの

だろうけど)。

 私からして、いま「良い事」と言えば、新型コロナが指定

感染症 2 類相当から引き下げられることだろうか。そうなっ

て欲しいところだが、さしあたり無理だろう。まぁ、彩雲の

ような美しい光景を見られること自体が「良い事」なので、

それで良しとする。


 世の中には、「良い報い」「悪い報い」といった考えがあ

る。「因果応報」で自分のしたことが自分に返って来ると考

えるのだが、この「因果応報」について、私の考えを一変さ

せる話を昔読んだ。

 確か山岡鉄舟の逸話だったと思うが、弟子が鉄舟にこんな

ことを言う。

 「先生、バチが当たるなんて言うのは嘘ですね。わたしは

この前、神社の鳥居に小便をしましたが、何にも起こりませ

んよ」

 それを聞いた鉄舟は弟子を叱りつける。

 「この、大バカモノ! 鳥居に小便をした時点で、お前は 

“鳥居に小便をする人間になった” というバチが当たっている

のだ!」


 この話を読んだときは、まさに「目からうろこが落ちた」

という感じだった。
 

 バチは後から当たるのではない。

 良い報いも後から訪れるのではない。

 悪い事をすれば「悪い事をする人間になっている」という

バチが当たっていて、良い事をすれば「良い事をする人間に

なっている」という報いの中にある。
 

 「酒を飲み過ぎて二日酔い・・・」などというのは、報い

が後から来ているのだけど、ああいうのは「因果応報」とい

うよりは「原因と結果」というべきだろう。「そりゃぁ、そ

うなるよ」ということでしかない。


 「因果は、巡る糸車」なんてことを言ったりもするけれ

ど、仏教用語には「前後際断」というのもある。いつも「い

ま」。わたしたちには「いま」しかない。「いま」がすべ

て。身も蓋も無い言い方をすれば、「因果」が時間を越えて

「報い」をもたらすなんて妄想だ。


 ところがもう一方で、「縁起」という考え方もある。すべ

ての出来事は、過去からの「因縁」によって起こる。「どっ

ちなんだ」と言いたいところだが、「縁起」の方が上位の概

念だと捉えるべきだろう。


 「縁起」によって起こる事は、その起こった事が次の出来

事を起こす「因」となるのであって、「縁起」の中には「結

果」が無い。「結果」が無いので「評価」も無い。出来事は

ただ起こり続け、切れ目なく影響し合いながら移り変わって

行く。


 過去と関連付けている間にも、出来事は起こり続け、“新し

く生まれた過去” が次々と積み重なるので、本当は、過去に

付き合っている暇など無い。

 「ここで、ストップ! 採点します」などということはでき

ない。

 世界に、生きることに、「評価」は無い。


 いつでも、今することをする。

 いつでも、今起こる事を、今受け取る。

 今することは、「因縁」によって今するしかないのだか

ら、喜んでする。

 今起きることは、「因縁」によって今起きるしかないのだ

から、喜んで受け取る。

 「喜んでする」ことができなくても、「喜んで受け取る」

ことができなくても、そのこと自体が「因縁」によるのだか

ら、苦にする必要が無い。“喜べない自分” を喜んで受け取れ

ばよい。


 虹色の彩雲に出会う「縁」。それをネタにこんなブログを

書ける「縁」。有り難いと思う。感謝感激雨あられ。


 そんなことを書いているうちに、空が少し暗くなってき

た。積乱雲が発達して、本当に雨あられになるかもしれな

い。洗濯物を取り込んでおこう。



 

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