2021年7月3日土曜日

「科学」という宗教について



 ちょっと量子コンピュータの話をネットで見ていて、今後

コンピュータが超高性能になったらどうなのかを考えた。


 どんなにコンピュータの性能が上がっても、それを使うの

は人間。例えば、中国共産党が「国をさらに発展させるため

に最善の方法」を超々スーパーコンピュータに計算させたと

する。その答えが「中国共産党を解体すること」だったとし

たら、共産党はそれを採用するだろうか?


 「絶対に正しい」とされることがあっても、自分が気に入

らなければ人はそれを認めない。コンピュータが神のように

賢くなっても、それを使う人間がバカなら何にもならない。

しかし、逆に、神のようになったコンピュータにすべて従う

ようになるなら、さらにバカではなかろうか? でも、暗黙の

内にそれを求めている人間はもうすでに相当数になっている

ように思う。それは「コンピュータ教」の誕生であり、映画

『マトリックス』の世界の始まりと見做せるだろう。


 自分を越えた存在に、絶対に間違いのない生き方を教えて

もらって、その通りに生きる。人というものは、古来からそ

れを望んで来た。その望みが数々の宗教を生みだし、さまざ

まな教義が人々を律してきたのだが、それの最新版が、スー

パーコンピュータという神であり、コンピュータシミュレー

ションによる予測という教義なのだろう。


 「原理主義」という言葉は、もともとイスラムやキリスト

教の極端な信奉者を表すために生まれた言葉だそうだが、

「原理主義」は宗教と親和性が高い。いや、「原理主義」は

宗教からのみ発生する。「原理主義」を生み出すものは、表

面上宗教の体裁をしていなくても宗教だと言えるだろう。そ

教義と個人のエゴが融合した時、「原理主義」が生まれ

る。    


 コンピュータを神とし、その予測を教義とする現代の新興

宗教は「安心安全原理主義」とよくなじむ。というわけでス

ーパーコンピュータ「富岳」のウイルス飛散シミュレーショ

ンが示され、安心安全の為に人々は自粛し、ワクチンを接種

する。


 変化はリスクを伴うから、「安心安全」を突き詰めてゆく

と、最適環境を作ってそこにとどまっているというようにな

らざるを得ないだろう。その究極は、まさしく『マトリック

ス』で描かれる生命維持システムに繋がれた人間の姿だが、

ステイホームで外界とリモートで繋がって、食事を宅配で手

に入れ、「安心安全」に生きようとすることは、そういうこ

とではないか。

 人は「安心安全」を求めるものだ。しかし、それが目的に

なってしまうのは愚かなことだと私は思うし、それでしあわ

せだとも思えない。


 科学的知見という祝詞を上げ、スーパーコンピュータにお

伺いを立て、学者、専門家と称する神官がご託宣を述べて、

人々は「へへーー」とそれに従う。科学とはいったい何なの

か?


 西洋で、宗教の行き過ぎた部分を中和する役割で発生した

科学は、今やそれ自体が宗教になってしまい、原理主義者の

り代となってしまっている。思想であれ物であれシステム

であれ、何を創り出しても、与えられも、人間がバカなら

それを有効に使うことはできない。そどころか、かえって

害を生みだしてしまう。


 アタマの悪さをそのままにしておいて、何を信じようと、

何を利用しようと、人はしあわせにはならない。

 アタマの悪さを脇にどけさえすれば、何も信じなくても、

便利な道具や快適な環境を手に入れられなくても、そこには

しあわせがある。


 アタマの選ぶ神ではなく、アタマが選ぼうとしない神こそ

が、わたしたちが「神」と呼ぶにふさわしいだろう。そして

その「神」は常に在る。世界に遍満している。自分の外に、

自分の内に。




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