2021年6月26日土曜日

不健全な安心



 前回のブログを書き終えて、すぐ「健全」という言葉が頭

に浮かんだ。

 マスクなんかしてないで、走り回ってハアハアと息をすれ

ば、ウイルスやら細菌やら粉じんやらダニのフンやら色んな

ものを吸い込むことだろうが、それは「健全」だろう。それ

が「健全」を育むだろう。


 子供がみんなマスクをして密にならずに過ごしてい

る・・・。

 その光景を見て「安心で安全だ」と思う大人は、命の感覚

が狂ってる。

 どう考えたってそんなの「異常」でしょう。健康の為に

「健全」が犠牲になっている。


 子供たちを “異常” な事から守る為に、子供たちに「異常」

な環境を与えて、子供たちの生き方を「異常」にしてしまっ

ている。“異常” なのは、それをしている大人の方だ。


 この世界には “異常” な事が、いくらでも、ひっきりなしに

起こる。それが “普通” なのに、その “普通” を無視するか

ら、本当に「異常」なことになる。

 「異常」なアタマから見れば、あれもこれも “異常” なんだ

ろうが、「異常」なのは自分のアタマの方だなんて思いもし

ない。まったく困ったもんだと思うが、どうしようもない。

 私は「付き合ってらんない」とあきらめてそれでいいが、

子供は可哀想である。


 普通、人が生きていれば何度も病気をするものだ。とても

重い病気をすることもあれば、そのまま死んでしまうことも

あるが、いずれにせよ病気やケガをすることを完全に避ける

ことは、まずできない。病気やケガをしていれば当然「不健

康」ではあるが、生きているということにはそういうことも

織り込まれているものだから、「人生にはそういうこともあ

る」と心得ておくことが「健全」だろう。


 無菌室のような、清潔で「安心安全」な環境で生きること

を求める人を、「不健全だ」と感じるのは、私だけではない

だろう。気持ちが悪い。

 アタマにとって良いことは、得てして気持ちが悪い。い

や、“気持ち” に悪い。そして身体にも悪い。

 すべてが統御され、身体的にも精神的にもまったくリスク

のない、快適そのものの環境で暮らしたら? たぶん、人はお

かしくなってしまうだろう。


 イレギュラーな事。思いがけないハプニング。そういった

ものが刺激として無い、平坦で均質な日々を過ごせば、人は

「健全」ではいられないだろうというのは、たぶん正解だと

思う。「健全」どころか、かえって「健康」さえ失うことだ

ろう。実際、コロナ騒動の中で「安心安全」の為に家に閉じ

こもっていてそれが起きているしね。


 今は「踏切内に人が入った形跡がある」などと言って、

「安全確認」と称してすぐに電車を止めたりするけれど、私

の子供の頃は、野球のボールが線路に入ったりしたら、フェ

ンスを乗り越えて拾いに行ったりしていた。そこに電車が来

ても、運転手は「危ないからどいてろ!」という感じで警笛

を鳴らしはしても、電車は止まらなかったし、そういうこと

で事故が起こる事も滅多に無かった。危なくても、「織り込

み済み」なら大して問題にはならないものだ。


 「リスクなど、織り込みたくはない!」、そう考え、行動

と環境を徹底的にコントロールして「安心安全」にしようと

するけれど、エントロピーの法則により、秩序が生まれれば

その分の無秩序が別の所に発生する。目の前から消し去った

リスクは、姿を変え、違うリスクとなって気付かぬ形で戻っ

て来る。それなら、気付いている分だけ最初のリスクの方が

マシだが、「安心安全原理主義者」はそこまで考えが及ばな

い。


 「不健全な安心」より、「健全な不安」の中に生きる方が

しあわせだろうと言えば、少し奇をてらい過ぎだろうか?







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