2021年6月24日木曜日

まだ、子供は生きていた



 この前、散歩をしていて久しぶりに良いものを見た。小学

生が十数人(三学年ぐらいの男女混成)、市営住宅と併設の

公園と、その周辺のワンブロックを使って鬼ごっこをしてい

た。

 何ラウンド目かは分からないが、途中でみんなが集まりル

ール変更の相談をしている。「より面白く、よりフェアに」

といった狙いなんだろう。自分たちで遊びを作り、問題があ

れば自分たちで考えて改善し、より良くしようとしてい

る・・・。素晴らしい勉強じゃないか。
 サッカーとか野球とかテニスとか空手とか、そういうこと

も悪くはないんだけど、既成のルールの中で、社会的に了解

された目標や喜びにフォーカスして子供時代を過ごすこと

は、自主性や創造性のような大事な “何か” が自由に発露す

ることを損ねるんじゃないだろうか、という気がする。
 「自分たちの楽しみ喜びは自分たちで創る」。昔は当たり

前だった子供達の遊ぶ姿が見られなくなって久しいけど、将

来にツケが回るんじゃないだろうか。個人々々にも、世の中

にも。


 子供に限らず、「用意された “遊び” を遊び、教えられた

“楽しみ” を楽しみ、認められた “喜び” を喜ぶ」というの

が、今は大人でも普通だろう。子供時代に “遊び” を学ばな

かったせいなのかもしれない。


 「遊ぶ」というのは、禅宗ではとても大事な言葉だそう

だ。「遊戯(ゆげ)」というのだそうだけど、「目的の為で

はなく、それをすること自体が目当ての行い」、「なんとは

なしに、肩の力の抜けた、とらわれのない生き方」、そうい

う意味合いで使われる。

 「生きることが、何かの為の手段であってはならない。そ

ういうのはサイテーだ!」ということです。

 なぜなら、何かの為の手段になっているということは、

「生きること」がその目的より下位であるということだか

ら。それは「生きていること」に対する冒涜だ。


 わたしたちにとって、「生きていること」がまず先にあっ

て、それ以外の事は飾りのようなものです。ところが、わた

したちはすぐに飾りたがる。飾りに目を奪われて、「生きて

いること」が二の次になる。「生きていること」が飾る為の

手段になってしまう。生き損ねる。


 鬼ごっこで走り回って、それで誰かが褒めてくれることは

ない(今回の私のような変わった人間もいるけど)。ただ面

白い。そこがイイ。そこが尊い。

 見物人は無し、それで何かにしようという目的も無し、そ

ういうのを「純粋」と言ったりする。

 自分が動く、まわりが動く、自分の動きでまわりが変わ

る、まわりの動きで自分が変わる、その行ったり来たり、出

たり入ったりが、知らず知らずに自分とまわりを育てて行

く。


 何かの目的の為ではない活動は、人に自然な成長をもたら

すだろう。

 世の中からのご褒美は無いが、そこには苦悩は無い。


 そのこと自体が「楽しみ」。

 そのこと自体が「喜び」。

 そのように生きることは、命に対する最高の敬意を示すこ

とになる。


 鬼ごっこで無心に走り回って、「面白かった!」とハアハ

ア息を吸い込んだら、きっと空気と一緒に「命」を吸い込ん

でいることだろう。その「命」が、子供を、人を育てるだろ

う。しあわせにするだろう。




0 件のコメント:

コメントを投稿