2021年6月20日日曜日

「夢」の終わりに



  私は、自分がガンなどの死に至る病になったら、従容とし

て死んで行きたいと思っている。

 うちの奥さんは、私に死んで欲しくはないそうなので、そ

れを思えば従容となどしていられないかもしれないが、自分

自身の死を必死になって避けようとは思っていない。もちろ

ん、酷い痛みなどがあれば苦しむだろうけど、それはしょう

がないことで、私の気持ちとは別だ。


 人智の限りを尽くして、死をひと時の間押しのけることが

できたとしても、そう遠くない将来に必ずやって来るのだか

ら、それが少しばかり早いとしても、大したことではない。

だいたい、こんなブログを書いている人間が、「死ぬのはイ

ヤだ!」とジタバタしていては格好がつかない。

 人の死亡率は 100%。いい歳になって「死ぬのはイヤ

だ!」なんて、子供っぽいことを言っていては、自分を生み

出してくれた “この世” に対して申し訳がないではないか。


 人生は、「長い夢」に例えられることがよくある。実際、

「夢」なんだと思う。

 100歳で死ぬとしても、その死ぬときには、過去の100年

はどこにも無い。

 当人と、関わった人の記憶の中にはあるとしても、そこに

実体は無い。それは夢と変わらない。

 その「夢」はなかなかにドラマティックだったかもしれな

い。凡庸だったかもしれない。惨めだったかもしれない。悲

惨だったかもしれない。けれど、どのようなものであったに

せよ、やはり「夢」だったのだ。そして、死に往こうとして

いるその時にも、いま生きている命はまだある・・・。


 「ああ・・・、・・生きている・・・」

 人生という「夢」を次々に置き去りにしながら、最後の瞬

間までわたしたちは「生きている」。瞬間ごとの「いま生き

ている」を、わたしたちは「生きている」。その瞬間ごとだ

けは「夢」ではない・・・。そして、最期の瞬間を越えた

時、わたしたちは「死」へと還る。「夢」もろとも、わたし

たちは「死」へと溶け去る。いったい、私という「夢」を見

ていたのは “何” だったのか?
 

 海は水を感じることはできないだろう。

 空気は風を感じることはできないだろう。

 生命は命を感じることはできないだろう。

 「それ」そのものは、「それ」を感じることはできない。

 「生きている」を感じて続けて来たのは、「死」なのでは

なかったのだろうか?

 わたしたちは始めっから「死んでいる」のではないだろう

か?・・・・。

 「死」とは、本当は “何” なのだろうか?


 「夢」が終われば、分かる・・・かもしれない。





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