2017年1月13日金曜日

世の中をたしなむ


 《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》



 ひと頃、自分探しという言葉がよく使われました。

 今でも自分探しは続いている様ですが、この頃は「アタ

マ」の中に“小さな自分”を設定して、それを囲い込んで“自

分”とするパターンも多い様です。

(もしかしたら、このブログもそうかも知れない・・・。う

~ん・・・。)


 「意識というものは、社会(世の中)が脳の中に浸潤して

来たもので、どちらかといえば自分ではなく社会(世の中)

に属するものです」から、「世の中」や「自分のアタマ(意

識)」の中に、「自分」をいくら探しても見つかるはずはあ

りません。



 「世の中」は、わたしたちの「アタマ」の本体です。本体

なんですが、わたしたちの「アタマ」が端末で、「世の中」

はわたしたちの「アタマ」が繋がったネットワークであっ

て、「これが本体」という独立した実体が在るわけではあり

ません。まぁ、大きなサーバーとかは在りますね、聖書・コ

ーラン・学校・マスコミ・株式市場 etc・・・・。

 そういったものも在りますが、「世の中」の実体は、相互

に関わり合うわたしたち自身、ということに成りますね。


 考えれば当たり前の話なんです。

 当たり前の事なんですが、でも普通は「わたし」という個

人が先にあって、その個人が繋がって「世の中」を作ってい

るとかんがえます。しかし、実際は「世の中」がわたしたち

を作ります。

 わたしたちは「世の中」に作られ、わたしたちが「世の

中」を作ります。「世の中」はわたしたちを作ることで、

「世の中」の再生産を続けている訳ですね。



 でも、今や「世の中」はあまりにも膨れ上がり、その片隅

でわたしたちは窒息寸前じゃないですか?(そうは思いませ

んか?)

 だから、こう薦めます。

 《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》 

 と。

(「なさい」とチョット上から目線なのは、その方が文章の

切れが良いからで、私が偉いと思っているわけではありませ

ん。それと、そもそも自分に言い聞かせていることですか

ら)


 では、誰が「世の中をたしなむ」のでしょう?

 「世の中をたしなむ」という意識を持つ時、その意識は、

それまでの「世の中」に作られた意識ではなく、「世の中」

から外れた意識になります。それが「自分」というものだと

思います。


 わたしたちは、「本来の自分」から離れる程、幸せを感じ

られなくなります。完全に離れてしまえば、生きていられま

せん。

 「世の中」に完全に取り込まれてしまった時、わたしたち

は、まさに“自分”を見失い、人を殺し、テロや戦争まで行

い、日本では多くの人たちが自ら命を絶ちます。

 「それは、時に想像を絶する恐怖として、時には巨大な怪

物となって、わたしたちを押し潰しさえします」と初回に書

いたのはそういうことです。






 

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